【書評】西村幸祐著「幻の黄金時代 オンリーイエスタデイ’80s」祥伝社

西村幸祐著「幻の黄金時代」

 本書に満ち満ちているのは、1980年代という時代への愛と哀しみの想いである。政治と高度経済成長の時代としての60年代、挫折と低成長・成熟時代への移行の70年代はしばしば語られるが、80年代の時代と文化を、その光と闇の双方をここまで総合的に描いた本は初めてである。著者はしばしば戦後民主主義体制に対する厳しい批判者とみなされる。しかし、その反面、著者がどれほど戦後的価値観のプラスの面を評価しているか、それを理解したうえでその欠落部分を乗り越えようとしているかの思想的苦闘の道程を、これほど明らかにしたものはない。

 本書は村上春樹の初期傑作「風の歌を聴け」(1979年)の分析、そして時代を切り取った様々な広告キャッチコピーの分析からはじまる。(著者は1980年、ジョン・レノンが殺された当時、ジャズクラブを経営していた村上春樹の店を訪れた時のとても印象的なエピソードを書きつけているが、これはまるで村上の小説にそのまま出てきそうなシーンで、著者が村上春樹的世界の同時代人だったことをよく表している)。「風の歌を聴け」を、「サブカルチャー論の否定」の物語と読むのはまさに卓見で、私なりに著者の主張を読みかえれば、80年代文化の最良の功績は、70年代までは確かに存在した「主流(体制)派文化VS対抗(反体制)文化」という、いかに過激に見せても所詮戦前からの左派・プロレタリア文学の論理の延長線にすぎない構図を全面的に否定したことにある。サブカルチャー論、つまり「主流派」に対する「サブカルチャー」という構図は実は70年代までの文化論の薄められた再生産にすぎない。優れた80年代の表現者たちは、表現には主流も反主流、非主流もなく、普遍性を持つ優れたものと、何らかの前提や説明がなければ自立しえない限定されたものの違いしかないというごく当たり前の地点から自らの作品を生み出していった。それが文学なのか、音楽なのか、企業広告なのか、建築なのか、そしてまたホンダのエンジン開発なのかは、それぞれが選び取った分野の違いにすぎず、そこに上下も階層もあるはずはない。

 実はこの視点こそが、それまでの左翼イデオロギーからはじめて日本文化が脱した証明なのであり、戦後民主主義文化に価値があるとしたらその最良の到達点なのだ。著者は本書で磯田光一を限定付きとはいえ高く評価しているが、それは磯田が文芸評論家として、左翼の古典的巨匠である大西巨人と、左翼幻想崩壊後の文学者島田雅彦を比較して論じつつ、この80年代文化の意義を当時としてはもっとも鋭く見抜いていたからに他ならない。

 しかし、この到達点には、同時に致命的な欠陥を備えていた。このような表現者たちの自由で豊潤な世界を維持するためには、何よりも国家秩序の安定、個人の表現を生み出すための伝統社会の保持、さらには日本的な経済システムの維持が必要だという当然の前提を、80年代という時代はついに自覚することができなかったのである。本書が文化を語りつつ、同時代に北朝鮮の拉致事件が起き、歴史問題における外交的敗北が続き、また経済面でも日本がプラザ合意によって致命的な打撃を受けたことに常に立ち返るのは、この80年代日本に欠けていたものを指摘することなくして、現代日本の問題にはたどり着けないという、この時代に生き、その可能性をかって信じた自らへの自省の念を込めた告発なのだ。著者が磯田光一とは逆に、保守リベラル派と思われがちな山崎正和の80年代論を厳しく批判するのは、山崎が80年代日本の、いや、現在まで続く国家意識の欠如について、それを文化的成熟だと曲解し、80年代の最悪の欠点を助長するものであるからだ。

 そして、これも私風に読み替えさせていただければ、70年代までの悪しき左翼イデオロギーは、この80年代、左翼幻想の崩壊のなかでいったんは沈黙せざるを得なかったが、その後最悪の形で復活したのである。かっての左派は、少なくとも日本政府、日本資本主義と正面から対決し打倒しようという意志はあった。新左翼には、同時に旧左翼の偽善をも厳しく批判する姿勢があった。それがいかに誤ったイデオロギーに根差していたとはいえ、少なくとも自らの力を信じ戦おうとしたのである。しかしこの時期から、すでに効力を失った共産主義を(表面上)捨て、それでも自らを「大衆を指導し政府に反対する前衛エリート」とみなしたい人々、その多くは言論機関に属する彼らは、歴史問題で過去の日本を侮辱し、同時に自らの力ではなく、中国、朝鮮半島の「国家」の力を借りてでも日本を批判しようという「事大主義者」に成り果てたのだ。勿論この姿勢は、中国・南北朝鮮政府によって国際的に政治利用され、河野談話、村山談話に直結していく。日本外交は未だにこの情報戦で貼られたレッテルから脱しえていない。本書はこの経緯を緻密にたどり、この動きに80年代文化が何ら有効な手を打てず、言論機関を反日史観が支配していった経緯を証明している。

 そのもっとも中心的な存在だった朝日新聞が、80年代の終焉に、記者が自らサンゴ礁に落書きをして撮影、それをダイバーの自然破壊だと報じたのは、まさに象徴的な事件だった。まさにこれは、中国政府がしばしば行う歴史偽造、ねつ造そのものの行為であり、朝日と中国の共犯関係のグロテスクな産物だったのである。

 そして、80年代の幕を開け、「ノルウエイの森」(1988年)という傑作によってある種文学的完成を見た村上春樹について、著者は愛憎半ばする文章で、その限界をも指摘している。村上は2009年、エルサレムでの文学賞受賞後、「システム」について講演した。そこで村上が繰り返したのは、作家・個人はシステムの外にある存在であり、国籍、人種を超越した存在だということだった。著者は、この言葉・教義こそが、むしろ今は国境や権力よりもはるかに強い「システム」ではないか、村上には「逆に人間が『国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在である』という教義を絶対とする『システム』と闘わなければならないこともあるという一面が見えていない」と批判する。ここで著者はチベット、ウイグルなど「この世に漢民族以外の民族主義などあってはならない」という中華帝国主義、そして「民族主義は偏狭な思想であり幻想である」という左派リベラル双方から虐殺されている人々のことを続けて紹介するが、村上は要するに、80年代という時代の限界を全く意識していないのだ。確かにパレスチナ問題に直面しているエルサレムで村上がこの講演をしたことには個人的な勇気は評価されてもよい。しかし、村上の発言は、かって自らが否定したはずの、70年代までの左翼イデオロギー、「対抗文化、反体制文化の薄められた反国家主義に移行している点で、彼の最良の面からの後退なのである。そして、著者が怒りよりも哀しみを込めて批判する、東日本大震災後の余りにもひどい雑誌広告(日本復興をマッカーサーの写真で表現しようとした)は、80年代に可能性を見せた広告文化の最悪の退廃でもあった。

 しかし本書末尾で、著者は日本の希望と復活の可能性を、天皇陛下の被災地でのお言葉から引き出そうとする。80年代の一定の経済的、文化的達成を今再確認し、当時は見過ごされていた国家と歴史を復興する中で、再び、今度こそ「幻」ではない黄金時代を私たちがつかむための様々なヒントがちりばめられているからこそ、本書を読了した後の読後感はむしろ著者の他の著作よりもはるかにさわやかなものとなっている。あの80年代を生きた人はもちろん、これからの日本を再生しようと決意している90年代生まれの若い人にこそ本書をぜひおすすめしたい。80年代のヒーローの一人であり、わが最愛のミュージシャン、清志郎も天国に旅立つ前、最後のアルバムで歌ったではないか。「何度でも夢を見せてやる」と。(三浦小太郎)



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