【報告と動画】第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー

『ベンガル人とバングラデシュ』
プロビール・ビカシュ・サーカー(シャーカー)氏

はじめに

 バングラデシュの正式名称はバングラデシュ人民共和国です。南アジアの小さな国です。国土は144000㎢の広さの小さな国ですから、日本の約40%ほどの国土しかありません。そこに約1億6000万人とも言われる人々が生活しています。人口密度は日本の約3倍以上で、世界一人口密度の高い国です。

 バングラデシュという国の名前は、ベンガル語で「ベンガル人の国」を意味します。約1億6000万人とも言われているバングラデシュの人口のほとんどがベンガル人です。

 従来の民族学や歴史の研究では、ベンガル人の祖先にあたる人々はもともとこの地に住んでいた先住民であるドラヴィタ系の人々であり、その後、紀元前1500年~1800年ほど前にインドに侵入したアーリア人との混交、さらにモンゴロイドの混交により形成された民族であると言われてきました。また、ベンガル人はベンガル語を話しますが、このベンガル語もインド・アーリア系語族に属し、ベンガル人の祖先の形成にアーリア人の影響が深く関わってきました。

 この地の人々は宗教的にはもともとはヒンドゥーでした。その後、仏教が反映した時代もありましたが、ムガール帝国時代にムスリムへの改宗が行われ、現在に至っております。現在は人口の約90%がイスラム教を信仰しており、8.5%がヒンドゥー、残りがキリスト教徒、仏教徒です。バングラデシュはベンガル人の国ですが、少数民族もわずかにいます。ミャンマーに近いチッタゴン県の山岳部に住むチャクマ族を中心とした仏教系の少数民族で、ベンガル人というよりミャンマーの人々や日本の人々に近い外見的特徴がある人々です。人口の約1~2%と言われています。

 こうした人々が生活するバングラデシュは、1971年にパキスタンから独立した新しい国家です。すでによくご存じの方もいらっしゃると思いますが、まず、バングラデシュ人民共和国が現在の国家になるまでの近代史を、簡単にご紹介させていただきたいと思います。


バングラデシュ近代史

 ベンガル人というのは、現在のインド西ベンガル州とバングラデシュを合わせた地域に住んでいた民族のことをいいます。ベンガル人が住んでいたこの地域はベンガル地方と呼ばれていました。このベンガル地方はヒマラヤ山脈からの源流がガンジス川、ブラマプトラ川、パドマ川、メグナ川などの大きな河を通ってベンガル湾に流れることで形成された肥沃なデルタ地帯です。その肥沃な大地は豊かな農作物をもたらしたため、イギリス帝国に注目されることとなりました。17世紀の半ば以降から、イギリス帝国は東インド会社の拠点をボンベイ、マドラス、カルカッタ(現インド西ベンガル州コルカタ)に置き、インド貿易を始めました。18世紀に入ると、当時インドを支配していたムゴール帝国の衰退に乗じて、イギリスは領土支配に乗り出しました。

 当時ベンガル州を治めていたベンガル太守は、イギリス東インド会社とその職員の行っている密貿易がベンガル経済に大きな打撃を与えているのに抗議し、イギリス人をカルカッタ市から追放しました。これをきっかけとして、フランスの支援を受けたベンガル太守連合軍とイギリス軍の戦いになりました。1757年ベンガル太守はイギリス軍との戦いに敗れて戦死し、この勝利を機に、イギリス東インド会社はベンガル地方の支配権を得るとともに、フランス勢力を追い払い、インド全域に対する植民地支配の基礎を確立しました。これが有名なプラッシーの戦いです。

 その後、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などにより、19世紀半ばまでにイギリスはインド全域を支配下に置きました。イギリスは陰謀と武力によって全インド大陸を植民地化することに成功したのです。

 こうして始まったイギリスのインドの植民地政策は、その後約200年に及ぶ年月の間に、特にベンガル州から搾取した莫大な金や財宝、そして豊かな大地からの恵みである香辛料、お茶、ジュートなどの農産物から得る利益を元に、世界初の産業革命を成し遂げ、イギリスの中央銀行に発展したイングランド銀行の資産の元をつくりました。

 インドがイギリスに統治されていた時代、ベンガル地方は二つに分割されて支配されました。インドの西ベンガル州と現在のバングラデシュで、インドの西ベンガル州は西ベンガル、バングラデシュは東ベンガルと呼ばれていました。ベンガル地方の中心は西ベンガルであり、東ベンガルは西ベンガルに比べて発展が遅れていたため、過酷な労働に携わるカーストの低い人々が多く、こうした人々がムガール帝国時代に入ってきた新しい宗教であるイスラム教に改宗していきました。イスラム教の教えでは、アッラーの前に人々はすべて平等であるからです。現在のバングラデシュである東ベンガル州の人々にイスラム教徒が多いのは、こうした社会的な背景があって、改宗者が多く出たからです。

 イギリスの植民地支配に対して、最初に抗議運動を行ったのは、東ベンガルの藍産業に携わる農民たちでした。藍というのは日本にもある藍染めの藍のことで、社会的にも身分の低い貧しい人々が藍染の仕事に従事しており、イギリスの植民地政策のなかで酷使されていました。こうした人々の抗議運動が、インドの独立運動の始まりです。藍染めの労働者から始まったイギリスの植民地政策に対する抗議運動は、次第にインド国内に広がって、ガンディーやネルー、スバス・チャンドラ・ボースらを代表する政治的な独立運動に発展していきました。やがてこうした運動は、インド国内だけでなく、海外からの支援を受け、イギリスからの独立運動が展開されるようになりました。こうした海外からの独立運動の支援で中心的役割を果たしたのが日本でした。頭山満、内田良平、大川周明、中村屋の相馬夫妻などがその代表です。特にインド独立の志士ビハリ・ボースをかくまうため、娘と結婚させた中村屋の相馬夫妻とその娘俊子とのエピソードは有名です。相馬俊子はビハリ・ボースとの間に幼い子ども二人を残して病気で早逝したため、彼女の人生を思うとき、両親の思いとともに、インド独立のためにお金だけでなく、自らの人生を捧げてくれた日本人がいたことに驚くとともに、感動せずにはいられません。

 第二次世界大戦後、インドは独立を果たしましたが、それはガンディーが願っていたようなインドの姿ではありませんでした。インドを宗教的に分割し、ヒンドゥーの多いインドと、イスラム教徒の多いパキスタンとに分割独立しました。

 この時、イスラム教徒の多いバングラデシュはパキスタンに組み込まれ、インドをはさんで現パキスタンは西パキスタン、現バングラデシュは東パキスタンと呼ばれるようになりました。文化も言語も違う民族的に異なる人々がイスラム教という宗教によって一つの国家を運営していくというあり方には無理がありました。独立後もまた、東パキスタンの人々は、政治的中心地である西パキスタンの人々に搾取されるという社会構造に陥りました。

 さらにベンガル語を話す東パキスタンの人々に対して、パキスタン政府はウルドゥー語のみ公用語とする言語統制を行ったため、1952年にこれに抗議した若者たちが東パキスタンの首都ダッカで警官に発砲され、数名が死亡するという事件が起きました。この事件がきっかけとなって母国語を守ろうという運動が起こり、バングラデシュ独立運動に発展していきました。

 1971年3月26日、東パキスタンの指導者シェイク・ムジブール・ラーマンが独立宣言をし、東パキスタンの人々の独立のための戦いが始まりました。この独立戦争の時、インドはバングラデシュを支援してくれました。そして西パキスタンを支援したのは中国でした。この戦いでバングラデシュは大変な被害を受けましたが、12月16日、パキスタン軍事政府に宣戦布告し、9ヶ月間に及ぶ戦いに勝利しました。戦争中、日本国民はベンガル人を支持し、バングラデシュ独立のために応援してくれました。

 新独立国家バングラデシュのため、日本をはじめとする先進国から大量の物品や経済援助を受け、独立戦争の指導者であったシェイク・ムジブル。ラーマンが初代大統領に就任しました。建国の父と呼ばれるこのシェイク・ムジブル・ラーマンは、バングラデシュ独立のために人生を捧げた人でしたが、シェイク・ムジブル・ラーマンが党首を務めるアワミ連盟が政権を握ってからわずか3年にも満たない1975年8月15日、建国の父でありバングラデシュの初代大統領は、クーデタで一家全員とその時彼の家に訪れていた来客者を含め、二十数名が暗殺されました。この時、外国に滞在中であったラーマンの二人の娘だけが無事でした。このうちの姉娘の方が、現在のバングラデシュ首相シェイク・ハシナです。

 1975年の半ばから1990年までの15年間は、政治的に混乱した時代となりました。シェイク・ムジブル・ラーマン大統領の暗殺直後、アワミ連盟のムスタク・アーメッドが大統領に就任しました。このムスタク・アーメッドはアワミ連盟の指導者でしたが、軍人に強制されて大統領になり、アワミ連盟の活動を全面的に禁止しました。こうした強制があったため、アワミ連盟の指導者たちは身の安全を確保するために隠れたり、海外へ亡命したりしました。クーデタ直後、ラーマンの古くからの仲間であった4人の国民的指導者が逮捕され、その後、処刑されました。この事件によって、アワミ連盟を指導できる力のある政治家が少なくなってしまいました。独立国家となりましたが、民主政治は行われず、政権はジアウル・ラーマン率いるBNP(=バングラデシュ民族党)に移りました。

プロビール・ビカシュ・サーカー(シャーカー)氏プロビール・ビカシュ・サーカー(シャーカー)氏

 1981年、再びクーデタが起こり、最初の軍人大統領ジアウール・ラーマンが暗殺されました。この後、当時バングラデシュ軍の参謀長であったエルシャドが正式な手続きを踏まず、政権を得て、次の大統領になってしまいました。独裁支配が続き、国はどんどん貧しくなっていきました。この15年間には、イスラム原理主義者が軍人と手を組んで政権の大臣にもなりました。アワミ連盟は政党としての活動が禁止され、建国の父であり、バングラデシュの初代大統領であるシェイク・ムジブル・ラーマンの名前を消し去ろうとする政策がとられました。

 同じく1981年、初代大統領シェイク・ムジブル・ラーマンの娘シェイク・ハシナが滞在先のインドからバングラデシュに帰国し、禁止されたアワミ連盟の活動を開始し、その党首に選ばれました。帰国後、父の暗殺の陰謀を企てた者たちの裁判が出来ないように定めた法律Indemnity Billを取り消すため、軍人政府に訴え続け、そのことにより、シェイク・ハシナは何回も監禁され、警官から虐待を受けたこともあり、軍政と闘い続けました。こんな状態が続いているうちに、エルシャド独裁政府に対する民主化運動が全国的に巻き起こり、1990年エルシャド政権が崩壊しました。翌年の1991年暫定政府が組織され、暫定政府の下で総選挙が行われることになりました。この選挙にエルシャド前大統領率いるジャティオ政党も選挙に出ましたが、BNPに敗れ、軍政の時代が終わりました。

 BNPは最初の軍人大統領ジアウール・ラーマンが組織した政党で、1981年にジアウール・ラーマン暗殺後、未亡人となったカレダ・ジアが党首となり、アワミ連盟とともにエルシャド政権を倒すために闘ってきました。しかし、BNPも軍人と深い関係があったため、アワミ連盟とも次第に合わなくなりました。エルシャド政権時代と同じようにアワミ連盟をけん制し、多くの党員も殺されました。1996年、BNP政権が任期満了となり、再び暫定政府による総選挙が行われ、今度はアワミ連盟が政権を獲得しました。この年、首相となったシェイク・ハシナは、父の暗殺事件の裁判を禁じた法律であるIndemnity Billを国会で取り消しました。シェイク・ムジブル・ラーマン暗殺事件の裁判が行われ、暗殺者たちは2010年に5名が死刑が執行されました。22年振りに政権を獲得したアワミ連盟ではありましたが、問題の山積みとなっているバングラデシュの状態を変えることはできませんでした。BNPと協力し合えなかったこともその原因の一つです。

 その後2001年に、アワミ連盟の任期が満了し、再び暫定政府が組織され、今度はBNPが政権を得るというように、交互にアワミ連盟とBNPが政権を担当してきました。2001年の総選挙でBNPはイスラム原理主義のジャマティ・イスラム党と連立政権を組織しました。このことでまたアワミ連盟はBNPと協力することができない関係になりました。

 このBNPとジャマティ・イスラム政党との連立政権の間、2004年8月21日には、首都ダッカで行われたアワミ連盟の集会で爆弾事件が起き、女性アワミ連盟の会長と数名の会員が死亡しました。シェイク・ハシナも片方の耳に大ケガをしました。この爆破事件はシェイク・ハシナを暗殺するため、イスラム原理主義者がこの事件を計画したと言われています。このイスラム原理主義者たちは、最近、戦闘集団と呼ばれ、BNP政権と深いかかわりがあるとアワミ連盟やほかの研究者たちの間で信じている人々(ひとびと)もいます。

 2006年、任期満了になりBNP政権が終わり、再び総選挙となる予定のこの年、暫定政府のメンバーをめぐる問題で、二大政党が互いに自己の政党に有利な暫定政府の候補者を立てたため国が大混乱となり、事態を収拾するために軍隊が出動したことから、再び軍人が政権を獲得しました。二大政党の党首であるシェイク・ハシナとカレダ・ジアも汚職事件に関係して逮捕され、約2年間監禁されたこともありました。

 2009年、軍人政府の下で総選挙が行われ、アワミ連盟が政権を獲得しました。そして2014年の今年1月、再び総選挙が行われることになりました。この選挙ではアワミ連盟を筆頭として、ジャティオ政党と共産党の連立政権が成立しました。

 今年スタートした連立政権がどのようにバングラデシュを変えてくれるのかが楽しみです。

 2014年の総選挙では初めて暫定政府なしで総選挙が行われ、「デジタルバングラデシュ」というスローガンのもと、連立で再び政権を握ることができました。この5年間シェイク・ハシナの指導で経済的な発展を遂げました。日本の援助を受けながら貿易も成り立っていますし、日本のおかげでインフラ整備が進んでいます。

 世界の小さな国であるバングラデシュは、ほとんどの国々と平和的な関係を結んでいるかのような安心感がありますけれども、最近、中国が近隣諸国にとっている行動が大変気になっています。それはみなさんよくご存知かと思います。


日本とバングラデシュの関係

 先ほどお話しさせていただきましたように、バングラデシュも1947年まではインドの一部でした。そのため、ベンガル人やベンガル地方の歴史的な話になると、必ずインドの西ベンガル州と関係するため、私たちの意識のなかでもはっきりと分けて語ることができません。たとえば日本の方にしてみれば、この人はインド人でしょうと思う歴史的人物でも、その人物がベンガル人であれば私たちにとっては同じベンガル人ですので、その辺はご了承ください。

 旧東ベンガル、現バングラデシュと日本の交流がいつごろから始まったのか分かりませんが、江戸時代初期ベンガル地方から「ベンガルシルク」が輸入されていたようです。そのシルクは東ベンガル産ではないかという説があります。その後中世期にインドからサラッカやモスリンも、オランダ商人によって日本に入ったという情報もあります。モスリンは東ベンガルの世界的に有名な特産品で古くからイギリスの植民時代まで盛んに取引されました。この技術を後世に伝えないため職人の指をすべて切り落とした話は有名です。

 明治時代になると多くの日本人が海外へ移民するなか、24人がインドに渡りました。1903年頃、高知県の出身でタケダ・ウエモンという人が当時の東ベンガルに行き、ダッカの石鹸(せっけん)工場(こうじょう)で働きました。その後1906年にベンガル人女性ホリプロヴァ・モッリクと結婚しました。ホリプロヴァ・モッリクは1912年に日本を訪れ、旅日記も書き残しました。その後、タケダ・ウエモンの弟もダッカへ移り、同じようにベンガル女性と結婚して、そこで生活しました。当時、東ベンガルの人も日本に来て技術を学びました。最近、彼らが書いた書籍も見つかりました。1907年、僧侶で学者だった木村日記が東ベンガルのチッタゴンでパーリ語を習い、さらに3年後にインドのカルカッタ大学で学び、教授になりました。そして詩人タゴールやスワミー・ビベカナンダと親交(しんこう)しました。インドの独立運動の時代にも、東ベンガルから何人かの志士が日本へ滞在したことがわかっています。また、アジアで初めてノーベル賞を受賞した詩人タゴールは、1902年にコルカタで岡倉天心と知り合いになり、タゴールは5回も日本を訪れました。彼の両親や妻も東ベンガルの出身です。世界的に知られている東京裁判のインド代表ラダビノド・パール判事も東ベンガルで生まれ、西ベンガルで育ちました。

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー

 独立時点からバングラデシュは日本の経済援助やODA 受けられています。2010年までそれは10ビリオン米ドルとなっています。1973年に当時の首相田中角栄に招待受け、バングラデシュの建国の父であり、初代大統領のシェイク・ムジブル・ラーマンが日本を訪問しました。翌年には当時皇太子であった今上天皇がバングラデシュを訪問され、日本とバングラデシュの交流に新しい道を開いてくださいました。

 1980年代半ばになると、中曽根時代の留学生10万人計画に基づいて、バングラデシュから多くの留学生が日本に来るようになり、両国の文化交流が盛んになりました。私もその一人でした。日本から多くのことを学びたいと思って来日した日を懐かしく思います。その志の通り、日本から本当に多くのことを学びましたし、たくさんの方にお世話になって、今日(こんにち)の私がここにいます。ジャイカもバングラデシュの発展に大きな役割を果たしてきました。1980年代以降、多くの日本人がバングラデシュを訪れるようになりました。近年は日本から投資も急増し、現在時点で日本はバングラデシュの11番目の輸出貿易相手国となっています。日本でバングラデシュからの輸入額は、後発開発途上国からの全輸入額のうちの26%を占め、これはカンボジアに次いで2番目に多い数字となっています。バングラデシュから日本への主要輸入品目には革製品、既製服、冷凍エビが含まれています。本当にありがたいことです。


中国とバングラデシュの関係

 中国文明とインダス文明は全アジアの国々の文化の源です。東ベンガル地方は西ベンガル地方よりも古代から豊かであり、仏教が盛んでした。古代インドのアショカ帝国時代(304-232紀元前)より前に仏教が北ベンガル地方に伝えられていました。当時この場所はプンロボルドナと知られましたが、現在はモハスタンゴロという名前でボグラ県に所属しています。その仏教時代に中国の秦(しん)の時代(じだい)の僧侶や学者がプンロボルドナを訪れていました。その後5世紀から7世紀に僧侶の義淨(ぎじょう)や玄(げん)奘(じょう)東ベンガルのプンロボルドナの首都であったプンドロノゴルやショモトトやアッサムを訪れ沢山仏教の古い本やストラを本国へ持って帰りました。ダッカとチッタゴンの間にある、私の育ったコミッラ県にもモイナモティという9世紀から10世紀頃の遺跡が残されており、発掘はあまり進んでいませんが、観光名所となっています。

 中世期ころに大明(1368–1644)時代の鄭和大艦長が2回以上、当時東ベンガルの首都ショナルガを訪問しました。また、ベンガルのイスラム教徒サルタナート時代に中国へ公使を派遣したことが分かります。このような交流があり、パキスタン時代には1950年1960年の間に、首相周恩来が何回も東パキスタンを訪問しました。そして完全にパキスタンの味方になります。当時の中国共産党がベンガル人の有力な国家主義政治家マオラナ・アブドウル・ハミド・カン・バシャニーや、アワミ・ムスリム連盟の党首であったスラヮルディーと親交がありました。バシャニーは毛沢東ともとても親しい関係でした。1957年にパキスタンの首相としてスラヮルディーは中国を訪問しました。

 1971年、東パキスタンで独立戦争が起きると、中国はパキスタン軍事政府に協力し、外交的にアメリカとの関係を持ってバングラデシュの独立に反対しました。この時、バングラデシュを支援してくれたのはインドでした。みなさんご存じのように、インドとパキスタンの関係は良くありませんし、インドと中国の間にも領土問題があるため、中国とパキスタンの両国にとって、友好関係を結ぶことは政治的に必要ですし、有益です。その関係は今も変わっていません。1972年、バングラデシュが独立国となって、国連の安全保障理事会に加盟する時も中国は反対しました。しかし、1974年になると、両国は次第に外交関係をもつようになりました。1975年、初代大統領父シェイク・ムジブル・ラーマン暗殺後、中国はバングラデシュを承認しました。これはBNP政権になったためです。軍事政権の時代から現在まで、中国はバングラデシュの発展に協力してくれていますが、国民の間では人気がなく、バングラデシュ共産党のなかで中国を支持している政治家はほとんど力がありません。国民は独立戦争の時に中国がパキスタンを支持したことをまだ忘れていませんし、近年、アジア諸国に対する中国の政治的な動向に注意を払っています。現在、中国はバングラデシュと経済的パトナーになってはいますが、将来的にどのような関係に発展していくかは見通しがつきましせん。インドでも経済的に中国寄りになっているという意見もあります。私、個人としてはバングラデシュと日本との友好関係をさらに強化していくことが、両国の国防上重要課題であると考えています。ご清聴いただき、ありがとうございました。

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー 登壇したペマ・ギャルポ会長

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー 西村幸祐副会長

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー イリハム・マハムティ氏

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」 講師 プロビール・ビカシュ・サーカー 司会 古川郁絵


【動画】

第14回講演会「ベンガル地方と日本 友好100年史」講師 プロビール・ビカシュ・サーカー
https://www.youtube.com/watch?v=SoxIBw5h-vI

2014年7月19日、東京の拓殖大学で行われた「アジア自由民主連帯協議会第14回­講演会『ベンガル地方と日本 友好100年史』講師 プロビール・ビカシュ・サーカー」の動画です。

※告知より
https://freeasia2011.org/japan/archives/3418
日本とベンガル地方の教育及び文化交流の歴史は、1902年岡倉天心とノーベル文学者­タゴールによって始まり、戦前におけるアジアの精神思想に多大なる影響を及ぼしたが、­戦後は日本社会でこうした歴史が語られることは稀である。また、インド独立に貢献した­、スバス・チャンドラ・ボースや東京裁判のパル判事の功績など、日本とベンガル地方の­歴史について日本の皆様にお伝えしたい。

・講師
プロビール・ビカシュ・サーカー氏
Probir Bikash Sarkar
作家、研究家、編集者、拓殖大学 日本文化研究所附属近代研究センター客員研究員

・登壇
ペマ・ギャルポ(アジア自由民主連帯協議会 会長)
西村幸祐(アジア自由民主連帯協議会 副会長)
イリハム・マハムティ(日本ウイグル協会 代表)

・司会
古川郁絵

制作・協力 ラジオフリーウイグルジャパン
http://rfuj.net

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