【書評】「中国とモンゴルのはざまで」楊海英著 岩波現代新書

中国とモンゴルのはざまで 本書は現代モンゴルの悲劇の政治家、ウラーンフーの生涯と思想を、現時点で知りうる限りの資料を駆使してまとめあげた、モンゴルの歴史をたどる上で不可欠の伝記である。1906年内モンゴル西部のトゥメト地域の農家に生まれ、最初は慶春、4歳の時に雲澤(ユンセ)と名付けられた少年は、1925年にソ連(当時)に渡って4年間の留学生活を送った。しかし、果たして彼がソ連でどのような立場にいたのか、29年以後モンゴルに戻ってから果たして何をしていたのかは、今もほとんどわかっていない。1945年11月26日、中国共産党の翼賛組織「内モンゴル自治運動聯合会」にて、雲澤はモスクワと延安双方で訓練を受けたモンゴル人革命家として紹介され、忽然と歴史の舞台に現れる。本書20ページに掲載された当時の彼の写真は、著者楊海英氏が「モンゴル高原の奥から現れた『蒼き狼』」と評するそのままのモンゴル人男子のイメージが焼き付けられており、思想的にはソ連の影響を受けていようと、彼がまさにモンゴル民族主義者としての姿勢を当初から漲らせていたことを雄弁に語っている。

 しかし、この組織自体は中国共産党が、モンゴル独立を阻止するために作り上げたものでもあった。当時は内モンゴル東部では内モンゴル人民革命党が事実上独立国家に近い「東モンゴル人民自治政府」を作り上げ、日本軍の近代訓練を受けた騎兵軍団を有していた。またもう一つの勢力「内モンゴル人民共和国臨時政府」も、モンゴル人民共和国に控えていた騎馬軍団の支援のもと、雲澤と自治聯合よりははるかに巨大な勢力を持っていた。
しかし、著者も「内モンゴル現代史最大の謎」と呼ぶように、当時は独立の意志で燃え盛っていたはずの人民革命党他勢力は、激しい論争を経てのこととはいえ、中国共産党と雲澤のもとに抵抗なく帰順し、自治政府は解体されてしまう。その理由は著者も謎としているが、雲澤の言動に深い説得力があったことは事実だろう。そして特に彼に従ったのは「日本刀をつるした奴ら」と言われた、満州国時代に日本経由の近代思想を身に附けた若い知識人や軍人だった(「日本刀をつるした奴ら」とは、無学の中国共産党八路軍側からの蔑称である)。各勢力との闘争を制し、1947年5月1日、何と中華人民共和国建国以前に、雲澤は「内モンゴル自治政府」を成立させる。これは独立ではなかったにせよ「統一した、モンゴル人の自治領域」(40ページ)を作り上げたのは雲澤の功績であり「空間的、地理的な『統一した内モンゴル』の出現は雲澤の民族主義的な哲学思想が生んだ最大の政治的結晶」と、楊海英氏は高く評価している。この時期、雲澤は名前を「ウラーンフー(赤い息子)」と改める。

 しかし、これ以後のウラーンフーの生涯は、彼の夢と理想が中国政府からことごとく裏切られていく残酷な経過となった。ウラーンフーはレーニンやスターリンが唱えていた民族自決論を、現実のソ連体制とは関係なく、まともに信じ切っていたのだ。スターリンは1913年の「マルクス主義と民族問題」という論文で「自決権とは即ち民族が各自の希望に従って政治を行い得ることの請いである。それは自治の原則の上に自己の生活を打ち立てる権利を有する」と書き、レーニンも14年に「民族の自決とは、ある民族が、他民族の集合体より国家的に分離することを意味しており、独立の民族国家を形成することを意味している」と述べていた。ウラーンフーは特にスターリンの理論に共鳴し、死に際しては追悼文を書いているほどだが、ソ連では如何に形式にすぎなかったとはいえ守られた「民族連邦」における自決権を、中国政府は当初から認める気はなかったのだ。周恩来(彼は手ひどい陰謀でウラーンフーを最終的に失脚させる)は中華人民共和国建国当初から、新疆、チベット、台湾の独立を帝国主義者が企んでいるとし、連邦制など全否定していた。ウラーンフーは当初の段階で、自決の夢を捨て、しかもすでに清帝国時代から侵食されているモンゴル自治権の維持に死力を尽くさねばならなかったのだ。

 これ以後のウラーンフーの苦悩と、モンゴル人の悲劇の歴史は、本書や同著者の「草原の墓標」にあたってほしいが、それでも読者の胸を打つのは、ウラーンフーが1966年に北京で幽閉されるまで、あらゆる政治的手段と知恵を駆使して、毛沢東の言葉やマルクス主義の理論を引用しつつモンゴル人の権利を守り抜こうとする姿である。ウラーンフーは当初から「大漢族主義」具体的には中国人農民のモンゴルの土地収奪、強制的な農耕による草原の破壊をはっきりと告発している。しかし中国人側は、農耕こそ先進的・社会主義的な経済活動であり、牧畜を後進的なものとみなし、かつモンゴルの牧畜主や地主を反動勢力として攻撃した。また、中国人共産党幹部はモンゴル語を学ぼうともせず、モンゴル人幹部もやむなく漢語で意志を伝えるしかなかったが、ウラーンフーはモンゴル語を断固守ろうとし、モンゴル人が中国語を学ぶのもよいが、中国人の側もモンゴルに住みモンゴルの自治に携わる以上モンゴル語を幹部は学ぶよう力説した。そして民族の誇りであるチンギス・ハーンの祭殿が、国民党によって甘粛省に移されていたものを1954年帰郷させている(この時、ウラーンフーは起工式の日、チンギス・ハーンの肖像画を前にして涙が止まらなかったという)。56年に再建されたチンギス・ハーン陵は本書90頁の写真で観ることができるが、それな満州国のモンゴル人が日本の近代建築の影響を受けて建てたものと大変よく似ており、チンギス・ハーンが歴史的・伝説的偉人としてだけではなく、近代と未来のモンゴル民族精神の象徴としての思いをウラーンフーや当時のモンゴル人が込めていたことを感じさせる。

 そして、ウラーンフーの反撃は、牧畜と草原文化の精神を中国人に見せつける所から始まった。1964年早春の夜に、11歳と9歳の姉妹が草原で羊の群れを放牧していたが、冷夏37度に下がった気温と沸き起こった吹雪で、群れはちりぢりになってしまう。しかし姉妹は「人民公社の財産」である羊を守ろうと群れをまとめようとし、ついに雪の中倒れてしまったが、中国人の労働者に助けられた、という「実話」を、ウラーンフーは病院の少女たちを見舞い、「草原の英雄小姉妹」と讃え、このエピソードは京劇にもされて全国に広がり、絵本にもなった。実は、少女を助けたのはモンゴル人、それも日本軍隊経験者「日本刀をつるした奴ら」だったのだが、ウラーンフーは敢えてこのエピソードを中国人とモンゴル人の和解と協力の物語とし、かつ遊牧民の意志と誇り、そして責任感の強さを訴えたのだ。
又オルドス高原のウーシンジョ人民公社(この地域は著者楊氏の故郷だという)に生えた毒草を、地元の女性リーダー、ボロルダイの指導下除去、良質の草原に生まれ変わらせたという成果を、ウラーンフーは詩人の周小川を招待して「モンゴル人の社会主義建設と砂漠緑化運動」としてまとめ上げ、牧畜の理想像として宣伝した。

 同時に中央政府と毛沢東には、繰り返し草原の保護を訴え、モンゴルの農耕地には不向きで破壊しかもたらさないと主張し続けたが、勿論彼らは聞く耳を持たなかった。ウラーンフーはついに1965年、事実上の「農耕文明」を押し付ける中国人への宣戦布告というべき演説を行う。ここで彼は「我が内モンゴル自治区では、農耕地面積だけが増えて、単位面積の生産高は上がっていなかった。農耕地を開拓する問題は一向に止まらない。現在もまた、農耕地は広がりつつある。だから、砂漠化がひどい。これは、古い農耕を踏襲したやり方で、破壊的な生産方式である。たとえば、大青山の北側での方法は、完全に『遊農式生産』だ。破壊性農耕だ。」(151頁)
破壊性農耕とは、年間降雨量150ミリ未満の草原を無理やり耕作地にし『一年目は穀物を食う、二年目から砂を食べる』とまで言われた農業強制は、草原の急速な砂漠化を呼び、モンゴル人は「中国人は大地の疱瘡だ」と叫びつつあった。ウラーンフーは彼らの言葉を、現役の政治家としてなしうるギリギリのところまで代弁したと言えるだろう。中国人が全土に「農耕文明」を強制する中、牧畜文明の立場から「文明の衝突」をあえてしたウラーンフーが、ついに北京に幽閉され、彼なきモンゴルが文革の時代「キリング・フィールド」となった実態については、ぜひ本書に直接当たられたい。単なる弾圧や虐殺だけではない。引用するのも耐え難いので控えるが、当時の中国共産党幹部が、モンゴル人とその文化を、ヘイトスピーチという言葉も使いたくないほど侮蔑的な言葉で罵る姿は、正直、人間がここまで低劣になるのかという見本を見せつけられた思いがする。

 しかし、読後最も私の心に残ったのは、決して中国人を憎悪することなくヒューマニズムを貫いたウラーンフーとモンゴル人たちのエピソードである。大躍進時代、人民公社の破綻などから、中国は大量の餓死者と同時に孤児もまた溢れた。1959年、ウラーンフーは、遊牧民の伝統として、戦争や事故で両親失った孤児は必ず別の家庭や人間があずかって育てることから、自分たちが子供たちをできるだけ受け入れる、それによってモンゴル遊牧民を増やすこともできると提言し、上海などから3000人の孤児を受け入れたのだ。ウラーンフーの孤児たちに対する言葉は、おそらく彼の最も人間性の深い暖かさとおおらかさを体現したものだ。
「今や牧畜地域にいる子供たちはみんな可愛くて、モンゴル語を話している。牧畜民に可愛がられて「小牧民」と呼ばれている。(中略)子供を受け入れた当初は少し抵抗にあった。地方民族主義者にして偏狭な民族主義者は、あの子らをモンゴル人ではないという。モンゴル語を話し、モンゴルの羊を放牧しているのだから、立派なモンゴル人だ。」(120頁)この言葉こそ、中央アジアの遊牧文明から生まれ、未来につながる、真の意味でのヒューマニズムであり、あらゆる差別主義を乗り越える精神ではないだろうか(終)(三浦小太郎)

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