【報告と動画】第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」 講師 プロビール・ビカシュ・シャーカー氏

第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」

「戦後70周年の今、アジアの立場からパル判事判決を考える」
シャーカー プロビール ビカシュ

 最近、日本でまたパル判事の名前が戦後と同じように幅広く語られるようになってきました。みなさんご存じのように、パル判事は第二次大戦後直後1946年から48年にかけて東京で開かれた極東国際軍事裁判でインドの代表判事に選ばれ、約二年半の間、膨大な資料を調査して、この裁判に対する意見書をまとめました。これが「パル判決書」と呼ばれるものです。  
 戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことの非合法性を訴え、ただ一人、被告人の罪状のすべてを無罪としました。そればかりでなく、アメリカの原爆投下を批判して、世界に衝撃を与えました。パル判事は連合国の最高司令部の圧力にも屈せず、法の真理を追究した勇気ある正義の人です。


東京裁判では代表判事による判決が6つに分かれた。

1.米、英、ソ、中、カナダ、ニュージーランド → 多数判決※これが東京裁判の判決
2.インド パル判事  → 全員無罪
3.蘭 ローリング判事 → 広田弘毅は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に対して重すぎる。
4.仏 ベルナール判事 → この裁判は法の適用におよび手続きにおいて誤りがある。
5.比 へラニナ判事  → 量刑が軽すぎる。
6.ウェッブ裁判長   → 別個意見。※最高司令官の再審を期待。宣告を再審し、重刑を軽易なものにすることができる。


 その後、冷戦時代に入ると、世界は新しい問題に直面し、朝鮮戦争やベトナム戦争が起こり、第二次世界大戦は過去の出来事になりました。1970年代から90年代の前半まで、パル判事の名前は日本だけでなく、世界でも忘れられていました。
 しかし、1997年に行われたルワンダ国際戦犯法廷や2004年の軍事独裁者サダム・フセインの裁判が行われ、これらの裁判の合法性をめぐって、東京裁判でただ一人、反対意見を述べたインドのパル判事の名前が再び語られるようになりました。

 また、中国や韓国で起きた反日デモによって、日本でパル判事に関する本が出版されるようになり、さらに、安倍晋三首相が2007年に首相としてインドを訪問した時、首都デリーの国会でパル判事のことを話したことで、パル判事の名前はインドのマスコミでも報じられました。

 このように世界に影響を与えることのできる人物は、当時、アジアにもう一人いました。それは1913年に東洋人として初めてノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールです。二人はイギリスの植民地インドのベンガル地方で生まれたベンガル人です。しかし、とても残念なことに、タゴールはインドやバングラデシュで今も人気があり有名な存在であるのに対して、パル判事の名前はほとんどの人々に知られていません。パル判事が偉大な法律家であり、日本だけでなく世界の歴史に名前を留める人でありながら、その生まれ故郷であるインドやバングラデシュであまり知られていないのは、いくつか理由があります。

 タゴールはジョミダールと呼ばれる領主の息子として生まれ、13歳の頃から雑誌や新聞に詩や文学を発表し、皆さんもご存じのとおり、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞するなど、インドでは誰もが知っている華やかな存在の人でした。

 それに対して、パル判事は現在のバングラデシュである東ベンガル地方のクシュティア県で貧しい家庭に生まれ、子どもの頃に現在のインド西ベンガル州にある当時の首都コルカタに移り、そこで成長しました。国立コルカタ大学で理学修士、法学士を取得後、1911年から1920年までの間、東ベンガル地方のモイモンシング県にあるアノンドモホンカレッジで数学を教えました。その間に法律を勉強して、1920年に法学修士を取得し、弁護士として登録されたのは翌年の1921年で35歳の頃です。大変苦学して、努力した人です。その後、コルカタ大学法学部教授、インド政府法律顧問、コルカタ高等裁判所判事、コルカタ大学副総長などを経て、極東国際軍事裁判所の判事に任命されたバル判事は、法律の世界では非常に名前の知られている人でしたが、タゴールのように一般の人々にも知られるような存在ではありませんでした。

 また、東京裁判が行われている最中の1947年、イギリスによる約200年間の長い植民地支配が終わり、インドは独立しましたが、宗教上の問題からインドとパキスタンに分かれて独立しました。分割独立後、インドではコルカタ、ビハル、パンジャブ、カシミール、パキスタンではラホール、ラワルピンディなどの大都市で大量殺人事件が起こり、大混乱となりました。また、インドのイスラム教徒はパキスタンに、パキスタンのヒンドゥー教徒はインドに、自分の故郷を捨てて、1000万人もの人々が難民となりました。このような混乱により、飢饉が起こり、失業が増加しました。それだけでなく、左翼とインド国民会議との間に激しい対立もあり、問題を収拾することが難しい状況にありました。東京裁判でのパル判事のニュースは伝えられましたが、インドのコルカタやデリーの政治家や弁護士、知識人たちの間では、こうした分割独立後の問題が最重要課題であり、東京裁判の結果は他国の問題として片づけられました。

 さらに、インドの初代首相ネールとの関係が良くありませんでした。ネールとパル判事は若い頃からの友人でしたが、共産主義的な考え方をもち、ソ連の味方であるネールと、民族主義的な愛国心をもつパル判事との関係はうまくいきませんでした。

 2007年に私がコルカタへ行ったとき、パル判事の長男であるプロシャント・パルさんと知り合い、いろいろなお話しを伺うことができました。この方もまた弁護士で、何度か来日されたことがあります。プロシャント・パルさんのお話では、ネールは「パル判決書」を気に入らず、批判しました。ネールはアメリカやイギリスの判事たちと同じように、パル判事もまた、罪状に対し有罪を支持すると思い込んでいました。正義を求め、法の真理を追究してきた法律家であるパル判事が、自分の信条に反する判決を下すはずがないことに、ネールは気づきませんでした。プロシャント・パルさんのお話しによれば、パル判事が亡くなるまで、ネールには苦しまされたとのことでした。

 インドの初代首相になったばかりのネールにとって、パル判事の行いは政治的に望ましいものではありませんでした。それは、極東軍事裁判所を設置した連合国の最高司令部にとって、「パル判決書」が東京裁判の正当性をくつがえすものだったからです。そのため、「パル判決書」は法廷で朗読されることもなく、印刷もされませんでした。

 しかし、外国の通信社によって、パル判事のニュースは世界に広がりました。これは私が直接プロシャント・パルさんから聞いたことではありませんが、バル判事が東京裁判を終えて、インドに戻ったときには、まるでチャンドラ・ボースが生きて帰ってきたような大きな歓声で人々はパル判事を迎えたと、プロシャント・パルさんは他のところで語っています。帝国主義の英米に対し、アジアを解放しようと戦った日本を罰することに反感をもった、当時のインド人の素直な反応であったと思います。

 有罪判決を受けた被告たちもまた、この「パル判決書」を読むことができたようです。特に死刑判決を受けた被告たちにとって、刑が執行される前に「パル判決書」を読むことができたことは、どんなにか心の救いとなったことでしょう。このように「パル判決書」を隠すような政治的動きがあって、パル判事の名前が次第に忘れられるようになったのだと思います。

 しかし、なぜ連合国の最高司令部はパル判事のような人物を、東京裁判の判事に任命したのでしょうか。これは謎でもあります。当時、インドはまだイギリスの支配下に置かれており、イギリス代表のパトリック判事だけで良かったのではないでしょうか。なぜ、植民地であるインド代表の判事をわざわざ入れる必要があったのでしょうか。

 その理由は色々と考えられますが、植民地であったインドやフィリピンの代表を判事に加えて、日本を痛めつけたかったのでしょう。しかしもっと根本的な問題として、当時、国際法を良く知る法律家が少なかったことです。東京裁判の判事のなかに国際法を知る判事がいないと、後から、東京裁判そのものが批判されるような事態になることを、GHQのマッカーサーは分かっていました。

 先ほどのパル判事の長男プロシャント・パルさんの話によれば、東京裁判が開かれる前に、マッカーサーの代理人としてオランダの代表ローリング判事はインドへ行き、ネールに国際法を知る弁護士か判事を紹介するように頼みました。自分でもケンブリッジ大学で法律を学んだネールは、そのような人物はインドに一人もいないと答えたそうです。しかたなくローリング判事は帰国しましたが、実は当時、パル判事はすでに世界の国際法学会において、議長団の一人として知られていました。そのことをネールが知らなかったとは思えません。その後、ローリング判事はパル判事のことを知って、再びインドに訪れ、パル判事に裁判にインドの代表として出席するよう依頼したとのことです。私がプロシャント・パルさんに聞いた話はここまでですが、パル判事を東京裁判のインド代表判事に推薦したのは、インドの最高裁であったカルカッタ高裁の長官ハロルド・ダービーシャー卿であったと言われています。

 一体、東京裁判は何だったのかということを考えると、連合国の最高司令部が徹底的に日本を痛めつけ、復讐しようとしたのが東京裁判でした。ある意味、それは成功しましたが、神様はこの裁判が少しでも公平に行われるよう、パル判事を選んだのでしょう。

 パル判事は1928年から1945年までの18年間の歴史を、各方面の貴重な資料を集め、約二年半もの年月をかけて徹底的に調べました。その資料は4万5千部、参考書籍は3千冊に及びました。もちろん、長い間、西欧列強に苦しめられた日本は侵略国ではないし、ドイツ帝国ほどの損害も与えてない。アジアで最初の侵略者は西洋人でした。日本が中国の南京で大虐殺を行ったことが裁かれるのであれば、広島と長崎で原爆を投下して、罪のない一般の人々を殺したアメリカも同じ罪で裁かれるべきだと言っています。
 東條英機は自衛のために始めた戦争であると証言しましたが、朝鮮戦争が始まった翌年、マッカーサー自身もまた合衆国上院の公聴会で、日本は自衛のために戦争を始めたのだと証言しました。冷戦が始まり、その当事者となったマッカーサーは、朝鮮半島が日本の国防上、最後の防波堤であることを理解し、東京裁判が誤りであったと語ったことが伝えられています。

第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」

 最後に、東京裁判後のパル判事のことをお話ししたいと思います。

 東京裁判後のパル判事と日本の関わりはとても深くて長いのですが、色々なエピソードがありまして、それらはほとんど世界に知られていません。たとえば、東京裁判中に元松井石根陸軍大将の秘書であった田中正明氏や平凡社の創立者下中弥三郎氏と知り合い親交を深めました。1952年、下中弥三郎氏の招きでパル判事は再び日本を訪れました。平和運動家として、広島で開かれた世界連邦主催による世界で初めての国際平和会議に議長として出席しましたが、日本に滞在中は日本の大学や弁護士会、日本戦犯遺族会などで講演し、東条英機の家族にも会いました。

 国際平和会議には世界各国から100人以上の代表が参加しました。もちろん、アメリカ、イギリスの代表もいました。そして、パル判事はこの国際平和会議でも原爆を批判しました。

 「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意想表示をしていたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなく、日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか」と述べました。

 また、広島原爆慰霊碑に献花して黙とうされた際、慰霊碑に刻まれた文字に目をとめたパル判事は、通訳のナイルさんに何が書いてあるのかと聞きました。そこには「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という文書がありました。それをパル判事は二度も三度も確かめました。そして、その意味を理解するにつれ、判事の表情は厳しくなって、こう言いました。

 「この《過ちは繰り返さぬ》という過ちは誰の行為をさしてるのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることが明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀っているのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人ではないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というなら肯ける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD 包囲陣を作り、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきたアメリカこそ開戦の責任者である」と述べました。

 戦後、「パル判決書」についていろいろな批判がありました。その一つは、日本に同情した判決だというものです。しかし、パル判事は一方的に日本を擁護したわけではありません。そのことについては、帝国ホテルで行われた「パル博士歓迎委員会」で、パル判事はこう説明しました。
 「わたくしが日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。わたくしは日本の同情者として判決したのでもなく、また、これを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい。」
これらのパル判事のことばは、パル判事が東京裁判後に来日された時のエピソードとして田中正明氏が小冊子にまとめています。

 結論的に言えば、「パル判決書」は戦後70年かかって、西洋人の目を覚ましてきました。2014年12月28日付の産経新聞で「歴史戦」という特別コラムに、滞日50年の英国人記者でNYタイムズ紙の元東京支局長ヘンリー・ストークス氏は東京裁判ついてこう述べていました。

 「来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信棒していたが、半世紀にわたり日本と日本人を知るうちに、そもそも東京裁判は戦勝国の復讐劇であると考えるようになった。戦勝国が全能の神であるかのように日本に罪を裁くことに違和感を覚えた。実際にインド人判事のラダ・ビノード・パールは『全員無罪』とした。オーストラリア人高裁判事のデール・スミスは30年研究して『司法殺人?』と題する本を出版している。ところが、戦後の日本が東京裁判に基づいた歴史観を受け入れたかのような政治、外交姿勢を取り続けているのは、情けなく愚かなことだ。史実に反するプロパガンダである東京裁判史観から脱却しなければいけない」

 戦後70年たった今となって思うのは、「パル判決書」はただの意見書ではなく、人類の過去を見る鏡であり、未来へのみちしるべであると思います。再び戦争をすることなく、平和で豊かな社会をつくるために、今こそ正しい歴史を学ばなければならないと思います。
日本は中国や韓国からいつも謝罪しろと言われています。また先日、安倍首相がアメリカに行った際も、謝罪するかどうかが重要なテーマであるかのように議論されました。

 戦後70年となった今も、日本は謝り続けなくてはならないのでしょうか。

 現在、アジアの平和は新帝国主義中国の脅威によって、緊張状態にあります。侵略されたとして日本に謝罪を要求する中国が、今度はアジアの近隣諸国を脅かしています。日本はもう謝ってはいけません。その理由を知るために、今こそ「パル判決書」はもっと多くの人々に広く読まれるべきであり、その時がやってきたと私は思います。

プロビール・ビカシュ・シャーカー
Probir Bikash Sarkar
作家、研究家、編集者、拓殖大学 日本文化研究所附属近代研究センター客員研究員、アジア自由民主連帯協議会理事


第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」 登壇した吉田康一郎副会長。

第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」 三浦小太郎事務局長。

第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」 司会、古川郁絵。


【動画】

第16回講演会「戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える」講師 プロビール・ビカシュ・シャーカー
https://www.youtube.com/watch?v=p6bOMA7IUpw

2015年5月30日、東京永田町の星陵会館で行われた「『戦後70年 アジアの立場からパール判事判決を考える』講師 プロビール・ビカシュ・シャーカー氏」の動画です。

※告知より
http://freeasia2011.org/japan/archives/3939
東京裁判にて法の正義を貫いたラダ・ビノード・パール判事の精神を、新たに発掘された新資料を参考に、戦後70年の今、アジアの立場から考える講演会を開催します。皆様方のご参加をよろしくお願いします。

・講師
プロビール・ビカシュ・シャーカー 氏
Probir Bikash Sarkar
作家、研究家、編集者、拓殖大学 日本文化研究所附属近代研究センター客員研究員、アジア自由民主連帯協議会理事

・登壇
吉田康一郎(アジア自由民主連帯協議会 副会長)
三浦小太郎(アジア自由民主連帯協議会 事務局長)

・司会
古川郁絵(アジア自由民主連帯協議会)

※制作・協力 ラジオフリーウイグルジャパン
http://rfuj.net



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