【報告】第二回「民主社会主義学習会 : 民主社会主義と私、そして日本」 講師 寺井融氏

第二回「民主社会主義学習会 : 民主社会主義と私、そして日本」 講師 寺井融氏

 5月28日、東京都市ヶ谷の会議室にて、寺井融氏による、アジア自由民主協議会主催・第二回民主社会主義学習会が開催されました。講演会の全文文字起こしを掲載します。


 こんにちは。寺井融といいます。私のことをよく「てらいとけるさん」と呼ぶ人がいます。融けてなくなったら、困る。「とおる」と覚えてください。

 今日は、「民主社会主義と私、そして日本」というテーマで、1時間ほど話して、そのあと質疑ということで、ご質問があれば、いろいろ答えていきたいと思います。

 今の時代に独裁がいいという人はいないと思います。それがファシズムの独裁だろうが、共産主義の独裁だろうが、今の時代、例えば北朝鮮でも本当は情報が山ほど入っているのです。しかし、一度独裁体制が敷かれてしまうと、なかなか壊すことができないということです。ですから、われわれは、独裁の本質についてちゃんと学んで、一度もそうしたことをつくらせないことを考えていかなければならない。

 それから、一時、自由主義万能だという空気が日本国内でも大きくなりました。よい例が、小泉さんが郵政云々としたときに、そのブレーンが、新自由主義が一番よいと、市場の原理に全て任せておけばよいのだと、日本国内でもそうした雰囲気がとても高くなりました。はたして、そうですか。

 今、パナマ文書の問題で、たいへん話題になっていますが、金をものすごく儲けた人は、自分の力だけで儲けているわけでもないにも関わらず、税金のがれをうんとする。そして、ルール違反も平気でやる。力は正義だと。昔は貧しい人が本当に困っていたら蜂起する。よい悪いは別にして、マルキシズム的に言うとそうなります。

 今は、そんなことはありません。なぜならば、最低食えるようになっているからです。北朝鮮のように餓死する人が出るということはひとまず置いておいて、ワンダラーショップがあるではないですか。日本でいうと、100円ショップがあるではないですか。格差がこんなにできても、食べることができる。命を奪われなければ、ある意味で我慢していける、という国がいっぱいあるのです。

 今度のパナマ文書のことでおもしろいと思ったのは、圧倒的に日本企業や日本人は出てきません。これは、日本人の美徳だと思います。何をやって儲けてもよい、何をやってもかまわないという精神の人は、日本人の中にもいますが、おそらく少ないだろうと思います。やはり、社会の中のルールを守るフェアな精神があるのでしょう。それが、今度のパナマ文書の背景で、お隣のどこかの国は、なんとかイデオロギーをもって、すばらしく平等といいながら、すばらしく不公平だということが証明されてしまったではないですか。

 そうしたことを踏まえながら、私は民主社会主義について語りたいと思います。私は、なぜ民主社会主義者となったのか。立派なことをいろいろ言ってみても、本を読んでいろいろ頭を使って理解して、いろいろなイデオロギーを見て、民主社会主義者になったわけではありません。そうした立派な話ではありません。

 私は、北海道出身です。斜里郡小清水町生まれですが、札幌で小学校、中学、高校を過ごしました。私の父は、中小企業に勤めていました。本当は道庁に勤めていたのですが、道庁で宿直のときに出火事件があり、宿直の人は皆、辞めなかったのに、親父だけは「俺の責任だ」と辞表を出してしまいました。辞表を出す必要があったのかはよく分からないのですが、そのあとは、中小企業を渡り歩きました。

 ですから、札幌では、わりと貧しい生活でした。柾葺き(まさぶき)の屋根でした。札幌のあたりはトタンの屋根なのです。なぜかというと、雪をぱっとおろすためです。柾葺きの屋根は、雪があると、だんだんしみて、雨漏りのような状況にもなりかねません。私の家は、柾葺きの屋根。水道もなくて、ポンプでした。風呂もない。ガスもなく、炭火を使っている。ですから、私は札幌市の南4条西20丁目という、わりとお金をもっている人たちが住んでいる家が多いところで、「うちは、貧しいな」と思っていました。

 何が一番嫌だったかというと、母親が脊椎カリエスになって、4年間寝たきりになりました。そして、月末になると、電気代などの集金がくるでしょう。そうすると、母親が「今は、みんないない。来月になったら払うからと言ってくれ」と言いました。私は、この嘘をつくという行為がものすごく嫌でした。給料が遅配や欠配になるので、母親がしょうがないからそう言ってくれということが、嫌だなと思いました。

 母親は、脊椎カリエスですので、寝たきりです。そのうち、だんだん、福祉国家には福祉があるのだなと思えてきました。いろいろなことを見て、そうしたことが頭のどこかに響いてきました。そして、日本には改進党というものがありました。私は、小学校4年生から6年生のときに、クラスに改生活クラブをつくりました。なぜかというと、4Hクラブの真似です。4Hクラブがある、改進党がある。改める生活のクラブというものをクラスの中につくって、「改良だ」と生活改善運動をします。小学校5、6年生でやるというのは、はっきり言ってませガキだったのでしょうね。

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 そして、小学校6年生の1月24日に、民社党が結党します。「この党だ。俺はこの党に入ろう」と思いました。というと、とてもかっこよく聞こえるでしょう。今の話を聞いて、こうしたことは半分本当で、半分は嘘です。なぜかというと、親父が民社党のファンだったからです。親父が、安部磯雄が好きで尊敬していて、西尾末広を尊敬していたからです。親父は、『改造』や『中央公論』を戦前に読んでいて、そうした改良主義に憧れていたのです。親の人生を語らないと、私の人生は語れないのです。

 親父は、8人兄弟の下から2番目だったかと思います。三男坊です。生家は北海道の「おこっぺ(興部町)」です。オホーツク海の雄武町の隣ですが、そこで農業をやっていました。食えないのです。

 そして、兄貴二人がわりと優秀で、高等小学校しか出ていないのですが、昔でいう官吏になって、留萌でのちには助役までいくというように、出世していました。食えないので、中学に行かせてもらえるということで、留萠に行きます。そこで、兄貴のところには、子供がいなかったので、養子になります。ところが、兄嫁とけんかをして、中学2年生のときに退学をしてしまい、家に帰ってきたけれど、仕事はない。牛に牧草を食わせながら、勉強したいなと思い、今度は姉のお兄さんが満州にいて頑張っているというので、満州に渡り、ハルンの日本総領事館のアルバイトのような給付生になりました。いわゆる、大使館の末端職員です。今で言うと、非正規社員のようなものです。そうして、勉学にいそしみ、今で言う大学の検定試験がありますが、専門学校検定試験を通ります。専検を通った人は、一応、一高や三高といったナンバースクールに入るらしいのですが、親父はナンバースクールに落ちてしまい、中大の専門部に入るという経歴です。

 そして、親父は敗戦となったときに、「これからの日本は食糧だ」と思い、北海道に帰り、兄貴たちの援助を受けて、農場を経営します。そのとき、理想農場をやろうとして、農業協同組合運動もやりました。みんなで一緒に食事をして、みんなで働こうともしたのです。しかし、それは理想ではあるが、現実的ではないと気づきました。なぜならば、食べ物をみんな一緒にといっても、好き嫌いは一人一人あります。みんなで一緒に働くといっても、一生懸命働いた人とあまり働いていない人が収穫を分けるということはできません。共産主義の誤りを、身をもって経験するわけです。

 私が生まれたのは斜里郡小清水町という知床の根元のところです。私も病気がちだったので、病気になると、父親が町の医者のところまで馬で駆けました。途中でヒグマの糞があると、指をつっこんで温かいかどうかを確認しました。

 しかし、親父は、ここにいたらこの子供を殺してしまう、私の母親も弱い、だから札幌に出なくてはならないと。私は病気がちで、くる病でした。ビタミンDが足りませんでした。父は札幌に出て、安本(あんぽん)に入ります。安本とは、経済安定本部。のちの経済企画庁です。安本が解散になったときに、父親は道庁に移りました。自分の親を褒めてはいけませんが、そうしてこられたというのは、わりと優秀だったのでしょう。

 その親父が、民社党が好きでした。西尾末広が好きだったのです。おもしろいことがありました。私が中学に入ったときから、私の家の生活は画期的に改善されました。なぜか。父親は日魯漁業(現マルハニチロ)に転職しました。日魯漁業の社長宛てに、漁業はこれからは駄目だ、これからは畜産業をやるべきという論文を書いて、なんのつてもないのに送りました。そのころ、北海道ハムという小さな会社にいたのですが、この会社を買ってくれと、社長でも幹部社員でもないのに、そうして、60人くらい社員がいた会社ごと買ってくれと言ったら、「調査の結果、お宅の会社は買えない。だけど、おまえを買う」というようになって、スカウトされ、転職します。

 転職したら、私の家はまるっきり変わりました。今まではテレビしかなかったのに、電気冷蔵庫が入ってきました。電気洗濯機も入ってきました。やっぱり、いいものだなと思いました。生活は、抜群に改善されました。

 しかし、われわれがよく話していたことがあります。父親はハム会社に勤めていたので、畜産業に関心をもっていました。日本の畜産業者、養豚業者はかわいそうだ、と。農業指導員がいて「今、ブタの値段が高いから、ブタを生産しろ」と言われて生産すると、ブタが増えて、値が下がります。値が下がると、今度はあわててやめる。すると、高くなる。この繰り返しです。

 そのとき、親父が言っていたことを覚えています。日本のいろいろなところに、冷凍庫をつくればいい。安くなったときに政府が買い上げて、冷凍しておいて、高くなったら放出すればいいということを言っていました。政治好きなのでしょうね。私は、親父とその手の話をすることが大好きでした。

 私は、民社党が好きだったので、三党討論会などのテレビを見て、「民社党、民社党」と言ったのですが、選挙は負け続け、北海道ではぼろくそ。20歳になったら、民社党の党員になろうと思いました。ところが、19歳で入党してしまいました。なぜか。大学に入ったら、学園紛争で暴れまくるやつらがいて、ひどい状況でした。ふざけるなと思った。ですから、私は自慢たらしく言えることはあまりありませんが、これは自慢していいのでしょう。日本民主社会主義学生同盟という組織の創立結成メンバー13人の一人でした。メンバーの中には、のちに某新聞社の社長になった人間もいます。それから、のちに某大学の教授になったメンバーもいますし、いろいろな人がいます。私が一番そうした意味では駄目な方かもしれません。俗世間的意味の肩書き的な話でいえばね。人間的に駄目かどうかは、皆さんに判断していただくことにします。

 とにかく、学園紛争が激しかったのです。大学に行ったら、中央大学に受かったのですが、牛乳瓶を投げつけられました。右翼帰れと。ストをやっているのですから。私は、人間があまのじゃくのところもあるのですね。60年安保のときは、なんだか警察官がかわいそうでしょうがないなと思ったわけです。普通は、デモに同情するのですが、私は学力テスト反対で北教組が授業ボイコットをしようとしているとき、先生が自らそうしたことをしていいのかと批判しました。

 中学1年のときは、社会科の教師がとんでもなくて、安保について、みんなで議論しようと、社会科の授業でクラス討議をしました。私がたった一人です。安保条約改定賛成。みんなは安保条約を読んでいなかったのでしょうね。私も読んでいたのかどうかは分かりませんが、本質は分かっていました。前よりよくなっているではないかと。それから、今度改定して10年経ったら、嫌だったらやめられるではないか、前の条約では、そのままずっといかなくてはならないではないかと批判しました。みんなろくに分かっていないで、国民の声を聞かないで、岸反動政府は、といったことばかり言っていました。

 最後に教師、私が尊敬しているよい教師だったのですが、ゲイリー・クーパーに似ていました。なかなかかっこいい教師でした。その教師が「今、みんなの議論を聞いていると、安保改定賛成はたった一人だよな。みんな反対だよな。これが国民の声だよ。こういう国民の声を無視しているのが、今の岸反動政府だ」とアジ演説のようなことを言いました。「このやろう」と思いました。さんざん議論させて、「いろいろな意見がありましたね。皆さん、考えましょう」で締められるとばかり思っていたので。それが当時の雰囲気です。学校の教師もそうしたことを言うのです。北海道の雰囲気かもしれません。「ふざけるな」と思いました。

 私は高校でも、スト破りのようなことをしています。私は、札幌光星(こうせい)高校に入りました。私は本当のことを言うと、札幌南高校という受験校を受けたのですが、落ちてしまいました。はっきり言うと、ペーパーテストができないのでしょう。

 脱線しますが、日本の場合、頭がいいと言われる人は、ペーパーテストができなくては駄目ですよ。記憶力の勝負です。私は、自分ができないから居直るわけではありませんが、記憶力はないより、あった方がいいに決まっています。

 しかしながら、記憶力だけが人間の本性か。人間社会に必要なことか。もっと必要なことは、判断力や決断力、想像力でしょう。ペーパーテストで分かるのは、記憶力だけです。これが、うんと記憶力があって、ものすごく成績がよければ、説得力があるのですがね。すごくかっこいいのですが、できない人間が言うと全然かっこよくないですね。ただ弁解しているだけにしか聞こえないですが。

 そうして南高を落ちて、札幌光星高校に入りました。カトリックの学校でした。丸坊主です。そうしたら、高校2年生のとき、ひと騒ぎになりました。午後の授業の最初のときに、生徒会と応援団が教室に入ってきて、「出ろ、出ろ。ストだ、ストだ。出ろ。集会やるぞ」と入ってきました。私は、それに「なんで、これをやるのですか。スト権投票をやっているのですか」と、とんでもなく反発しました。すると「おまえ、なんだ。ごちゃごちゃ言うな」と言われました。

 スト権投票といったことは、高校生にはなじみがなかったのです。私はその程度の頭脳をもっていたのですね。そうすると、そのストに参加しなかった人間は、3年生で6人、2年生で私一人。学校の中で七人の侍と言われました。

 学校側もだらしなくて、その日のスト騒ぎがあって、次の日に道新に載ったら、おたおたして学生集会をやりました。私はそこの集会で、学校側の軟弱な姿勢がおかしいということを言うし、スト権投票もせずに一方的にストをすることもおかしいと言いました。すると、その後に応援団室に連れこまれて、「おまえは、生意気なことを言った」とか言われて、さんざん吊るし上げられて、腕の一本でもへし折られるのかなと思ったら、やられませんでした。なぜだと思います?

 どこの学校にも番長がいます。私の学校の番長が「あいつは、おもしろい野郎だな。みんなの前で堂々と一人で、百万人ともいえども我行かんと意見を言っている」と番長のお墨付きが出たらしいです。あとで分かったのです。

 話がどんどん脱線していきましたが、結果どうなったかというと、カトリックの学校です。その裏で手を引いていたのは、共産党の党員教師でした。実際にやろうとした最初の生徒会の中枢は、民青でした。そして、分からない連中がそれにくっついてやっただけだという構造が見えてきました。

 その一番の首謀者の教諭が私のクラスの担任でした。その担任が私に「危険な思想家」という本を「これいいぞ、これ読んでみろ」と。これは、山田宗睦という人が、福田恆存や平林たい子といった人たちを攻撃した本です。つまり、共産主義者から見てそうではない人を攻撃する。その先生が僕のところに来て、あれはどうだったかと聞きました。「これは、書いている人の方がおかしいのではないですか。批判されている人の方が正しいと私は思いますよ」と言うと、嫌な顔をしていました。私なりに当時も勉強していましたし、札幌光星高校新聞には、私は民主社会主義であるといった原稿を書いています。

 なぜかというと、『武器なき斗い』という山本宣治を扱った共産党系の西口克己の映画があります。その映画評にかこつけながら、「この映画はおもしろかった。だけど、私は民主社会主義者だ」という1行を入れてしまいました。ある意味では、とんでもない確信犯。学校の新聞に「○○主義」ということを入れてしまいました。

 そうしたことはともかくとして、大学に行ったらめちゃくちゃでした。それが今どのようになっています? そのときに、大学で暴れまくった人が私の知っている中にも何人かいますが、就職が決まったら、大企業だと。「へえ、おまえ、そんな資本主義の総本山のところに行って、どうするんだ」と聞いたら、彼はこう言いました。「だからこそ、入るんだ。総本山に入って、反戦青年委員会をつくって、中でがたがた言わせてやるんだ」「ほお、頑張ってね」と言いました。それから10年経って、その友人に会いました。僕は主義主張が違っても、同級生ですから。すると、「おまえ、まだ民社やっているの。日本は、自民党で動いているんだよ。俺は、毎日宴会やゴルフが大変だけど、日本は金融資本家が動かしているし、経済界が動かしているし、政治は自民党だよ」と言うわけです。「ああ、そう。頑張ってね」と言いました。

その彼は、大変出世しましたが・・・・・。

 その男が今なんと言っているか。去年クラス会でもめました。クラス会で彼がみんなのいるところで「今の安倍晋三右翼内閣は、安保法制というバカな法案をつくって、バカな総理だ」とごちゃごちゃ言うので、私は「ちょっと待てよ」と。まず、第一に、クラス会の近況報告で言う性格のものか。第二に、安倍さんをいくら批判しても、一国の総理大臣に対してバカと決めつけるのはなんだ。そう言いました。周りもこの場に合わない話をするのはやめようという空気で、彼も発言をやめました。

 このころ、学生運動のときに左翼でやった人間が、企業に勤めて、企業戦士として頑張っていて、負け組の方が圧倒的に多いわけです。負け組になった人はなおのこと、企業のタガが外れて、定年退職になったら、今の世の中はけしからん、おもしろくないという思いで、安保法制のデモに参加して、たいして過激なことをやるわけでもなく、昔のときのように警察に捕まる心配のないので安心してやっていて、悪口を言うことで溜飲を下げるという手合いが多いです。

 私は、何か主義主張をもてば、一生その主義主張にこだわれとは言いません。人間は日々変わるものです。いろいろな状況があります。しかし、そのときそのときでファッションのように、服の着せ替えをするように変わって、自分の服と違う人はけしからんといったようなことを言い募るやつは、絶対に許せない。右でも左でもいいです。悩んで苦しんで変わっていく人はいいのです。日本共産党の転向者を私は批判しません。戦前において、どれだけ彼らが苦しんで、思想的に悩んだ上で、新しい形を見つけました。そうした人たちは、尊敬に値します。

 言論界においても、いろいろ変わった人は山ほどいます。林房雄先生をはじめ、戦前から戦後になり、戦後の中でも非常に変わりました。林先生を悪く言っているのではありません。例で言ってみただけです。いろいろいます。しかし、皆悩み苦しんで変わっているはずです。悩み苦しんで変わるのはいいのですが、そうではない手合いが多いということが一つ。

 そして、大学を卒業し、就職試験を受けるつもりもなく、民社党本部からこないかと言われたので、そのまま就職しました。親は猛反対です。私の父親がなんと言ったかというと、「おまえ、運動をやるのはいい。それならば、一企業に入って、そこの中で働いて、まずは仕事で信頼を受けて、仲間から推挙されて、労働組合の指導者になって、労働組合の代表として政治をする手があるぞ」今なら、よく分かります。そのとき、なんと言ったか。「そんな、まどろっこしいことをやっていられません」と言いました。

 運動をするなら運動の総本山で活動したい。会社に入って、労働組合などはやりません、と言いました。親父はあきれて、「しょうがない、おまえの人生だから、これ以上は言わん」と言ってくれて、民社党本部に入ることになりました。

 私は、民主社会主義はなんだときかれたら、たった一言で言います。常識だ、と。人間社会の常識。民社党の綱領をもってきました。私がこの綱領規約集をつくりました。ときどき今でも読みます。民社党の綱領は、関嘉彦先生という都立大学の教授が起草したもので、ここの項目が一番好きです。「われわれは個人の市民的自由を最大限に拡張するものである。個人の能力が最高度に発揮できるような各氏の市民的自由の保障なくしては人間の解放は行われない」。

 つまり、よく理解できない人は、「おまえらは、民社だなんだと言うけれど、社会主義だろう。社会主義は自由をなくすんだろう。統制経済だろう」と言う人がいます。とんでもない。社会主義の定義は、500くらいあります。ナチスドイツも社会主義と言っていました。共産主義者のように、「俺たちは完璧な社会主義だ。他のは間違っているのだ。唯一だ」と言っている連中も、共産主義の中にもマルクスの言ったことを引き継いだレーニンや、スターリン主義や毛沢東主義になり、今の金日成主義など、いろいろごちゃごちゃいます。定義をするときりがない。

 ただ、民主社会主義をヨーロッパ風に言うと、源流はラッサール、ベルンシュタインと続いたドイツ社民党右派と呼ばれている人たち。もう一つは、フェビアン教会に代表されるイギリスの労働党。三つ目は、グンナー・ミュルダールに代表されるスウェーデン。つまり北欧の民主社会主義、イギリスの民主社会主義、ドイツの民主社会主義。この大きな三つは、共産主義者ではない人たち。分岐点は、自由ということです。自由を守るということです。自由主義者です。議会制民主主義を最も守っていこうという思想です。もっと言うと、改良主義です。これによって、100%よいという体制はない、社会には常に矛盾は出てくるので、少しずつ改良していきましょうという考えです。

 先ほど言いましたけれども、金持ちはどれだけ金持ちになってもいい、好き勝手やってもいい、そうでしょうか。ルールは守らなくてはいけませんし、社会は本人一人だけで生きているわけではないのです。社会の負担はしなくてはなりません。それから、ある意味で社会構成する中で、体の具合が悪いといった皆で応援してあげなければならない人もいるでしょう。そうした人たちには、みんなで助け合っていく、補助していく。こうしたことが社会の役割でしょう。

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 ご存じのとおり、日本は国民皆保険です。世界の国で、こうした国々ばかりではないです。あのアメリカでも、オバマさんはそれをやりたいと思っても、満足にできないです。中国はもちろん、そうではないです。誇るべきことです。「自由がいいのだ。健康保険なんてやめちまえ。金で病気を治せばいいんだ。貧しいやつは、死んでいけばいいんだ」という考えでは、はっきり言ってないということです。

 私ども民社党ができたあとに、大きな運動として、「お産に健康保険を」という運動をしました。健康保険制度ができて間もないころです。なぜか。北欧ではお産に健康保険が適用されていました。当時、日本では適用されていません。なぜか。お産は、病気ではないでしょう。正常なる男性と正常なる女性が結婚して、結婚しないで生まれる場合もありますが、するべきことをしてその結果のお産でしょう、健康保険になじまないといったわけではないですが、自民党は予算がない、健康保険改定からいっても病気でないものはやらないといって、自民党政府は反対。

 そこを民社党は、次世代のためにもお産に健康保険を適用できるようにしようと言いました。皆さん、この中で昭和34年生まれの方いらっしゃいますか。ちょうどよかった。昭和33年や38年、若干人数が少ないことを知っていますか。なぜかというと原因について、おもしろい話があります。

昭和34年をはさんだ昭和33年や昭和35年は、大テレビブームがおきます。テレビの受像機を買う。昭和34年4月10日に今の天皇陛下がご結婚なさった。当時の皇太子殿下のご成婚がありました。その当時、テレビはいくらしたか。昔は、25万円くらいしました。その当時は、14型が6万円くらいになりました。そうすると、ご成婚を見たいということで、2万円の頭金を払って、2000円の20カ月月賦を始めます。それまでは、せいぜい1年間。月賦という言葉を使ってしまいましたが、今でしたらクレジットです。月賦なんて言葉は、ゲップが出そうだと言われそうです。クレジットと言ってもいいです。

 そのようにテレビが普及したのですが、結局6万円かかります。当時、子供を産むことに6万円くらいかかりました。月給が2、3万円くらいの時代です。テレビを買おうか、子供を産もうか悩んだ結果、テレビを買ってしまった人が多くて、子供が生まれるのが少し減ったのだというのです。それが本当かどうかは分かりません。なぜならば、子供を産んだ人、産まなかった人に、十分な調査をした結果ではなくて、なんとなくこじつけくさいのですが、おもしろいなと。

 福祉というものがいかに大切か。子供を産んだり、病気になったりしても、みんなで助け合う。当時、福祉国家をつくると言ったら、なんと言われたか。自民党は、働かないやつに飴をしゃぶらせる行為だ、みんな働かなくなる。共産党、社会党は、資本家に飴をしゃぶらせてもらう行為になる。特に共産党は革命が遠のく。社会党は、革命が遠のくとまでは言いませんでしたが・・・・・・。

 福祉政策といったときに、他の党は反対でした。しかし民社党は、国民が拍手し、なおかつ、そのあとに公明党という政党が出てきて、それが福祉こそ俺の党だと大いに言い出し、福祉政策というものに誰も悪口が言えなくなり、社会保障政策がヨーロッパに比べて遅れていたのが、どんどんよくなりました。一番の理由は、経済が発展していたので、そうした余力があったということでしょう。

 民社党が当時唱えていた中産化階級路線ということは知っていますか。みんなを中産階級にしよう。つまり、大金持ちや貧乏人はなくす。大金持ちには社会負担をしてもらう。そして、みんながある意味中産階級になる。その成果は、そのあと、一時、わが家が中流家庭だと思う人が90%になるような時代を生みだしました。民社党の主張どおりではないですか。

 議会制民主主義を守る。これも、それまでは国会で乱闘がおきていたのです。私はそうした意味で、民社党はなくなってしまいましたが、日本の議会制のルールをつくったと思っています。

 さて、私がなぜ1年3カ月勤めた新進党本部を辞めたか。辞める理由は、生活レベルではありませんでした。私は幹部職員として、5万円の事務局長手当を別封でもらっていましたから。

 しかし、主義主張として許せないことがあります。住専問題です。7000億。住宅会社の焦げつきに応援するということで、自民党がその予算を組む。それに対して、野党が非常に反対しました。私はずっと新進党の幹部会にも出ていましたし、総務会という場にも出ていました。総務会で、総務はたしか30人。次から次に公明党系議員がたちました。今の山口那津男さんもそうです。当時は衆議院議員だと思いますが、公明系は、断固阻止するためにピケをはってでもやるべきだと言い、ピケ戦術が決まっていきます。

 なぜ、私がそれを怒ったかというと、真に議会制民主主義の中で、審議に参加しない、審議ボイコットまでは決して褒められないけれども、行為手段としてあると思います。それは、否定しません。しかし、第1委員室にピケをはって、少数派が、多数派がそこに入って議決するのを阻止するといった行為は決して許されない。議会制民主主義の否定だから。議会をないがしろにすることだから。

 そのときに、なんの反論も出ませんでした。僕は終わったあと、民社党系の議員に言ってもしかたないと思い、西岡武夫当時国対委員長に言いました。のちの参議院議長。「どう思いますか、これはおかしいではないですか」と言ったら、西岡さんがなんと言ったかというと、「だから、この党は駄目なんだよ」と。鳩山邦夫さん、当時は広報企画委員長で、今は自民党です。鳩山さんは「そうなんですよ」と。この二人とも駄目だと思いました。わが民社党ならば、みんなわが党が駄目だ、わが党の幹部は、と「わが」という言葉がついています。自分の党です。わが党はこれだから駄目だと言われたら、私は辞めませんでした。「この党は」と、幹部が言うような党にはいられない。

 民主主義は、自分たちが参加し、自分たちがその構成員の一人として、構成員の意識をもって、政党をつくり、政治活動を行い、その政党に自分の国や町を託すのだから1票を投じるということが民主主義の基本です。そうした意識もない人間に政治家たる資格はないと思い、こんな集団にはいられないと思いました。無力ですから、自分が辞表を出すしかない。辞表を出しました。

 そしてすぐ、50日間、シルクロードの旅に行きました。なぜ、行ったか。簡単。私は、おしゃべりで、六つの口の「むくち」と言われている男です。いろいろな人から、なぜ辞めたのときかれる。「新進党ってひどい党でね」といったことを言うに決まっています。いた党のことを悪く言ってはいけません。少なくとも、自分の口を封じるにはどうしたらよいのか。いないことが一番いい。マスコミも追いかけない。

 帰ってきたら、またマスコミに追いかけられました。「日刊ゲンダイ」は、一番嫌いな新聞ですが、インタビューをしたいと。つまり小沢一郎はけしからん、新進党はけしからんといったことを絵にしたいのかもしれません。このごろは、小沢一郎さんを盛り上げているのは、日刊ゲンダイだというのがなんだか不思議だけど、当時はそうした感じです。そのため、私の口封じ作戦は自分でしました。だって、そうではないですか。今日は女性がいるので言いにくいですが、昔付き合っていた女性に、あの人となんで別れたのと、実はあの子はああでこうでと言ったら、みっともないではないですか。男の沽券に関わるではないですか。男性が多いのでこういう言い方をします。女性でも同じ。女性の沽券に関わるでしょう。それくらいの節度は、私もあります。ですから、それで辞めたということです。

 話があちこちにいきます。1951年に社会主義インターナショナルという、世界の共産党でないフランス社会党、ドイツ社民党、イギリス労働党が集まって、日本からは日本社会党(のちの民社党も)ですが、社会主義インターナショナルで、フランクフルト宣言を出しました。「社会主義は、民主主義を通してのみ達成される。民主主義は、社会主義を通してのみ実現される。」この言葉は私どもがよく使うものです。

 社会主義という言葉は、先ほど言いましたとおり、500くらい定義がある中で、よく誤解されるのは、「統制経済だ、独裁政治になるのだ」という人がいます。社会主義は赤旗を立てて暴れているやつだと、保守系の人が意図的にそれを流す。つまり、社会主義という言葉と、共産主義者の行為や共産主義国家をイコールにして、批判します。それを跳ね返すだけの理論武装をして、それと戦う人たちが少ないことが問題です。

 日本社会党の多数派は、彼らがコンプレックスをもっているかどうかは知りませんが、徹底的に反共主義者だと言われることが嫌で、なんとなく妥協的な、社会民主主義を唱えていました。われわれ民社党は徹底的に反共であると共に、資本主義に反対でもあります。資本家がなんでもやりたい放題やると、自由経済は進めます。ただし、自由経済は万能ではありません。社会のためにルールは必要だという考えです。統制とは違います。よく分かりにくいという人がいます。分かりにくいです。なぜならば、時代時代、そのときそのときによって、さじ加減が必要で、改良していこうというものだからです。

 自由経済でなんでも野放しでやったら絶対よいのだという考えと、国や指導者や党が管理し自由がなくてもよいのだという両極端は言いやすいです。「おまえらは、中間か、中道か」とよく言われました。私は、右翼でもない。左翼でもない。正翼だ。正しい翼だといったつもりが、おまえはりっしんべんの性欲だろうと言われ、がっくりきたことがありますが、昔はそうでした。現在はそのことは私の軍事的機密ですから、その方面は今は語れません(笑)。そうしたことを冗談で言われましたが、右翼だ左翼だ、右だ左だというレッテル貼りは、勝手にしやがれです。そんなことではなくて、何を基準に社会を考え、経済を考え、政治を考えるかということです。

 ある意味で、日本という国は、非常に恵まれていると思います。皇室があって、一君のもとに万人平等の社会。その皇室も古代における天皇は、武力的統一など、武力的なところがあったかもしれませんが、何千年と続いている現在の天皇家、天皇様は、極めて日本教の教祖様みたいなものであって、日本文化の具現者でしょう。お田植えをなさったり、お蚕を飼ったり、祭祀を司るお方です。

 「○○総理がいい」など、内閣総理大臣は私たちの代表であるかもしれませんが、どんな人が出てくるか分かりません。私は日本人の叡智として、皇室伝統を守ってきたことは非常にいいことだと思っています。天皇制という言葉は使いたくありません。それは、左翼用語だから。私はその上に立って日本人という社会を考えたときに、民主社会主義という言葉がうまく合うかどうかは別にして、考え方はこの社会に本当は最も適合しているのではないかと思います。

 そんなことを言うけれど、民社党はなくなったではないか。民主社会主義は、なくなったではないかと言われるかもしれません。それは、確かにそのとおりです。しかし、人間は生きているときに、自分とあまりにも同じような空気みたいな存在には、魅力を感じないのかもしれません。右だ左だと極端なことを言った人のところに魅力を感じるのかもしれません。私のところは、消えてなくなりました。しかし、われわれの思想は、皆さんの生活にも、皆さんの社会にも息づいているのだろうと思っているわけです。

 しかし、もう一度、政治勢力として再興せよというと、これがなかなか難しい。思想的な基盤があったとしても、リーダーとしての人物が現れない限り、わが民社党というものがなぜできたかというと、戦前においては、河合栄治郎がまさに民社の思想の旗を立て、鈴木文治、松岡駒吉という労働運動のリーダーを得て、労働運動のリーダーから政治家になった西尾末広という人がいて、西尾末広が民社党を結党します。

 西尾末広のエピソードを一つ言いましょうか。彼は官房長官だったときに、労働組合の人間がいっぱい官邸に押し寄せた。代表が西尾に会わせろと集まった。「西尾、おまえは労働者の代表だろう。労働者の代表で選ばれているのに、労働者を裏切るのか」と詰問された。西尾さんは、なんと言ったか。「確かに、自分は労働者の代表として国会に選ばれた。だが今、西尾は日本国の官房長官である。日本国全体のことを考えて行動するのだ。何が悪い」と言った。労働組合のリーダーは黙ってしまった。西尾という人物のこの気迫を私は尊敬します。だからこそ、民社党を選びました。

 俵孝太郎さんが戦後日本をつくったのは、吉田茂と西尾末広だと言ったことがありますが、西尾さんのことは、一般ではあまり評価が高くない。それよりもあれは、だら幹で、金の問題を起こしていると。昭電疑惑ということで、お金を50万もらったと言われたけれど、無罪になっています。

 いろいろなことがあるのです。私が勤めた西村眞悟という議員は弁護士法違反で逮捕されました。確かに、西村事務所において非弁活動をしたと批判する人もいます。雇っていた人の中に、少しいかがわしい人もいたのは事実です。しかし、政治家の弁護士活動といえば、福島瑞穂氏や谷垣禎一氏も、皆職員を抱えてやっています。弁護士だけでやっていません。狙い撃ちにあったのだと私は思います。西村にもすきがあったと批判されてしかるべきかもしれませんが。占領時代だっただけに、西尾さんも犠牲者であったかもしれません。

 私は西尾先生を尊敬しています。なぜならば、自分の支援母体にはっきり物を言う姿勢。そして、安保条約においても、この安保条約に反対するならば代案を出さなくてはならないといった西尾の考え方。改良主義と言われようが、改良主義で何が悪いのか、改良主義こそ重要だという信念をもっていた人です。

 日本の政治を語ると、今は本当に泣きたくなるような状況です。小選挙区比例代表制という制度が悪いという人もいますが、私はそうは思っていません。あの中選挙区制時代が本当によかったのかと思うのです。石破茂さんがあるところの講演で、かつては五当四落だった、今も五当四落だ。でも、今は単位が違う。昔は、5億出すと当選、4億出すと落選、今は、5000万で当選、4000万で落選だと。本当かどうかは、私は知りません。確かめる術もありません。

 しかしながら、お金は確かに使わなくなりました。私が自分の歩んできた道を見ると、政治をやって、マスコミに行って、今は大学でも教えています。ある人に、政治、マスコミ、教育、日本の三悪そろい踏みだねと言われました。確かに、そういわれるムードが三業界にあるのかも・・・・・。

 ただ、政治の世界の弁明をするためにいうと、政治が本当に悪いのか。仮に悪かったとして、国民は悪くないのか。私はよく政治の悪口を言う人に言います。あなた、1年間に1000円でもカンパをしましたか。自分の好きな政党でもいい。好きな政治家でもいい。1000円寄付していますか。ビラの一枚でも配りましたか、と言います。投票に行くのは当たり前です。その上で、何党でも、どの候補者でもいいから、自らの代表に対して、一緒に政治活動に参加したことがありますかとききます。

 民主主義は、自分たちの国、自分たちの社会を自らが担っていくという覚悟がない限り、本当の民主主義は育ちません。今、政党なんかありますか。私が大嫌いな共産党は、ある意味で政党でしょう。私のもっともっと大嫌いな公明党もそうかもしれません。しかし、他の政党は政党と呼べるのですか。かつて、自民党は総裁選ということで、立て替え党員も多かったかもしれませんが、国民投票的なこともしました。そうしたことも消えてなくなりました。新進党の党首選も国民投票的なことをしました。しかし、それもなくなりました。

 今、政党がやっていることは公募だけではないですか。公募というのは、なんですか。イギリスの保守党のサッチャーさんは伝記に書いているではないですか。自分が政治家になるのに、一番苦労して、一番大変だったのは保守党の候補者になることだったと言っていました。保守党も労働党もイギリスの小選挙区の中で候補者になるためには、ディベートをいっぱいやって、審査を5回くらいくぐりぬけなければ、候補者になれないのです。日本の公募は知っていますか。私はよく知っています。なぜなら、新進党の最初の公募のときにやっていたから。簡単です。履歴書がよくて、顔がよくて、あとは雰囲気で決まるのです。この候補者出したら通るかもしれない、楽して選挙がやれる。私みたいに顔が悪くては駄目なのです。学歴もたいしたことがないと駄目です。学歴は、東大、ハーバードがいたらハーバードにしようなど、その次元です。あとは、親分がバックについていたら、一応公募という形を取りながら、その親分の声で決まる場合もある。

 だからここのところ、みんな事件を起こしたのは、公募議員です。宮崎なにがしも、武藤なにがしも、そうでしょう。それは、自民党だけでなく、民主党もそうです。例えば、選挙民はこの人は若くて、東大を出て、なんとか省の役人をやって、この党から出ているから、立派だと思ってしまう。しかし、官僚になって、官僚の道を進もうと思って、すごい壁にぶちあたるわけです。自分は天下の秀才で、官僚にもなって、天下の秀才だと思っていたら世の中秀才だらけのところにきてしまうわけです。官僚は落ちこぼれになると、これを挽回するにはどうするか。政治家になって、官僚を脅してやればいい。昔は、官僚が議員になるというのは、佐藤栄作でも池田勇人でもそうですが、それなりに官僚として優秀で、そして、吉田茂から「おまえ、出ないか」と言われ、もしくはそうでなくても、いわゆる参議院議員の場合は、天下りと言われたけれども、次官まで務めて、省の代表として出ないかと言われ、それなりの人がなったのです。

 今はそうではないです。「役人にはなってみたけれども、おもしろくない。」という人の受け入れ口がそうです。そうすると、その元官僚の政治家は、議員バッチをつけたらうれしいから、昔の役所のやつを呼んで、「これはどうなった。」と、自分のやっていたことだけは詳しいから、全体像ではなくて、細かいことを知っているから、そこで攻め立てて、気分がよくなるのです。気晴らし議員みたいなものです。

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 それから、今は何党とは言いませんが、何党の議員さんに多いのは、だいたい想像つくでしょうけれども、金を集める力も、なんの力もない。どうするか。議員歳費を貯めるのです。なるべく無駄な金を使わない。とにかく毎年1000万円貯めるのです。3年貯めれば、3000万円。あとは、党から金をもらって、選挙をやる。風が吹けば、当選する。吹いていなければ、落選。そして、風が吹くのを祈る。その間一生懸命、マスコミに出ることだけを考える。あとは、せいぜいネットに一生懸命発信する。ビラの一枚もつくらない。講演や演説会の一つもしない。イベントの一つも組まない。やれば金がかかるから。秘書は、国が認めた三人以外の秘書は雇わない。中には、ズルをして三人の秘書に年間150万円くらいの個人献金をさせて、その金を集めて四人目を雇って、三人の歳費で四人を雇う。そういったみみっちいことをする。志はどうなっているのか。そういう時代になってきている。

 田中角栄さんが偉かったとは僕は全然思わないけれども、なぜ角さん人気が出るのかというと、あの人は法律をいっぱいつくろうとしたり、金もうんと集めたり配ったり、いろいろなことをしているからです。今はそんな人がいないから、人気が出るわけです。

 私は二世議員という人たちは、ニセ議員かと言って悪口を言ったことがあります。しかし、二世議員を悪くばかり言っていられない。人材がいない。二世議員もいいところがある。なぜなら、選挙に苦労していないから。普通の人はものすごく選挙で苦労しているから、やっと当選したら、次当選するかばかりを考えている。二世議員は選挙ではなくて、国家を考える人もたまにはいる。しかしながら、あの人たちは、ギ(イ)ンの匙をくわえて生まれてきた人たちです。所詮は、民の心が本当に分かるのかと言いたい。全員がそうだというわけではないです。いい人もいっぱいいるのです。いるけれども、日本の政治の中で、二世議員が党の幹部にこんなにいていいのか。少しはいてもいいですが、当選回数至上主義なので、若くして当選して議員になるのは、所詮二世議員になる。

 かつて菅直人さんの悪口をみんなが言っていたときに、菅さんが成り上りだからけしからんと言っている人がいて、私はそれはちょっと違うのではないのか、成り上がるためにどれだけ苦労したかは、評価してあげてもいいのではないのと言ったことがあります。昔の友人から言わせると、「おまえは、菅を評価していたね」と言われますが、菅さんを評価したわけではなくて、二世議員ばかりでいいのか、それからある意味で、リーダーになるためにはマキャベリスティックなことがあったとしても、それは政治家として当然だろうと言っただけの話です。

 さて、だんだん時間が迫ってまいりましたが、私の今考えていることを言います。私は、今の日本の政治をどうするかという話以前に、日本はこれからどう生きていくのかというと、やはりアジアにおいては中国、インド、日本の三国志時代だと思います。これからもその構造は変わらない。世界全体からみると、アメリカであり、中国であり、そして日本が三番目の軸をつくれるのかどうかは知りませんが、ヨーロッパなり、そこにどう関わっていくかだと思います。そして、アジアにおいて、日本が手を携えていく国は「A5(エーファイブ)」だと言っています。ASEAN5。インドネシア2億4000万ですか。フィリピン1億ですか。ベトナム9000万ですか。タイが6500万ですか。それから、ミャンマー5200万ですか。このASEAN5カ国と日本は仲良くやっていかなくてはならない。

 なぜか。この5カ国は、人口ボーナスをもっている国です。タイは、もうすぐ人口ボーナスがなくなります。2020年くらいで人口ボーナスが終わりになります。日本が発達した日本のやり方がよかった、日本の経済がよかったなどはそのとおりですが、一番の要因は、人口ボーナスがあったからです。

 そう考えると、ASEAN5カ国はこれからますます発展します。いろいろな問題はあります。インドネシアと付き合うのだって、イスラムの国ではないか。フィリピンも、イスラムも少しいるけれども、大半はカトリックである。ベトナムは、日本と同じ大乗仏教の国ですが、共産党の国ではないか。タイは小乗仏教だけれど、なんせ軍政ではないか。

 ミャンマーは小乗仏教だけれど、なんせアウン・サン・スー・チーがやっている国ではないか、どうなるか分からない。いろいろとこう言う人がいる。しかし、ざっくり言って、これらの5カ国は、人口ボーナスがあって、発展していく。このA5の国と仲良くしていかなければならない。

 それから、もう一つ。日本の発展ということでいうと、昭和30年(1955年)の2月、日本生産性本部ができて、生産性運動が日本で本格的にスタートしたということは、歴史でもっと評価しなくてはならない。

 一言で言うと、何か。労資協調主義。労働運動の問題において言うと、労資関係を階級闘争、もしくは階層同士の闘いだと位置づける国ではなくて、日本のように経営者も労働者も一緒に働いてパイを大きくして、その中で分け方は次のこの企業の発展のために使うもの、株主に返すもの、そして、働いた人間に返すもの、それは協議して話し合いでやっていこう。場合によっては、ストという手段もあるけれども、基本的には話し合いでいこうという協調主義。これが日本に定着したことです。日本の風土に合っていたのです。これを持ち込んだアメリカよりも定着しました。

 ハーバード大学でも日本の飛躍の秘密はこれだと評価されています。今、アジアの国においても、労働運動という問題が、韓国は非常にもめています。なかなか難しいです。例えば、私の好きなミャンマーでも、オーストラリアの労働組合はヨーロッパの労働組合の影響を受けた人たちと日本の連合などを中心とする日本の労働組合のリーダーなどの運動とせめぎあいをしています。アウン・サン・スー・チーさんは、ヨーロッパ型を応援するのではないでしょうか。前のテイン・セイン大統領は日本型を応援していました。ですから、ミャンマーの労働運動のリーダーは、日本に派遣されて、日本の労働組合や生産性本部や連合の国際労働財団などいろいろなところで学んだり、研修を毎年したりしていました。

 私は日本型の労資関係や労働運動は、世界に誇るべきことだと思っています。ベトナムでショックを受けたことがあります。ベトナムのハイフォンに工業団地がある。ここの日本の工業団地が労働争議屋によって狙い撃ちにあった。ベトナムは、官製の労働組合があるので、それでやったと言う人がいるけれど、そうではない。ベトナムにちょうどポーランドにおけるワレサの連帯運動のように争議屋さんがいる。例えば、日本の企業でワーカーが月80ドルを90ドルにして10ドル上げたら、その1割が自分のポケットに入る。日本の企業は簡単で、その工業団地の中で、企業はお互い決めているので、1社落とせば全社落とせる。日本の企業は狙い撃ちにあう。

 なぜか。もっと言うと、中国企業や韓国企業では下手なことをすると、労働運動のリーダーは、暴力沙汰にあったり、逆に言うと金で横っ面をひっぱたかれて喜んで転んだりということもあります。アジアに出て行った日本の経営者が今大変なのです。昔日本の企業では労務担当の役員、常務などは一番優秀な人間がなっていました。今は、そうした労担など必要ない。なぜなら、馴れ合いになってきてしまって、労働組合の委員長がそのあと総務部長になったりするわけです。決して悪いことだと、私は言わないのですが、そのため労務政策がちゃんとできない。海外に今日本の企業が行ったときに、そこの責任者は営業のプロか製造のプロが行きます。労務管理のプロではない。現地で労務担当をするのは、向こうの人でアメリカのハーバードなどを出てマスターを取ったような人に担当させます。向こうの人が選んだからいいだろうというと、そうではないのです。外国企業に勤めたのですから、外国人からとやかく言われることに反撥はしても、言うことは聞くが、同じ国民でどこかの大学出て、経営者面をして俺たちに指図してふざけるなという話になってしまう。日本人は労務担当なんて面倒くさいことは嫌だ、俺は販売や製造のプロで来たのだから、それを一生懸命やるけれど、労務はあいつら同士でやらせておこうと、ほったらかしにする。すると、日本人の常ですが、失敗してうまくいかないと、黙って、みんなで情報交換をしない。企業同士、いろいろな情報交換をして、自分の失敗例も入れて、ばあっと共有すればいいのですが、それをしないのです。

 私は民主党政権のときに、たまたま外務副大臣と経産副大臣と厚労副大臣が旧民社党系の仲間だったので、なぜプロジェクトをつくって、副大臣同士でもそのことを研究しないのか。プロジェクトをつくって、アジアの企業進出している人たちが困っていることに対して、手を差し伸べることをしないのかと言ったけれども、残念ながら、にぶい反応で駄目でした。

 そのときに、なんのために政権を取ったのかと言いたくなったことを覚えています。働いている仲間の政権だったわけです。沖縄の県外移設や事業仕分けなんてパフォーマンスをするよりも、そうしたところで民主党政権は一つ一つ実績をあげるべきだったのです。

 自戒をこめて、最後に一言。渡辺朗さんは皆さん知らないでしょうが、民社党の国会議員を10年くらい立候補して落選し続けて、3回くらい落選し、4回目くらいに当選して、何期かして、また落選して沼津の市長をした人です。この人がまさに社会主義インターの申し子みたいな人でした。アジア社会党会議の事務局にも出向していました。この方が当選したあとに、聞いたのです。「朗さん当選してよかったですね。いよいよ民主社会主義者として活躍の舞台ですね」と言ったときに、朗さんがなんと言ったかというと、「民主社会主義、民主社会主義と言うより、もっとこの日本の伝統を知って、そこにもっと根付かなくてはならないと思った。自分は選挙をやって、あの沼津の土地で、立ち番が出るのだ。火をがんがん起こして、敵陣営が来ないように」と。「それは選挙に金をまくことですか」と聞くと、「それもあるけれど、よそ者を入れないということで、立ち番が立つんだよ。この村社会の中において、民主社会主義云々というよりも、この日本の伝統の中に自分たちの考えをどうやって浸透させていくか。村社会の中において、みんなが助け合いの心でやっているところに、われわれの思想をどう根付かせるのか、そうしたことをゆっくり考えていきたいし、行動していきたい」と言われて、私はそのとき「なんだか選挙をして、この人、だいぶ変わったね」くらいに思いましたが、この年になってよく分かる。

 民主社会主義という言葉は、私は好きですし、思想が間違っていたとは思いませんが、イデオロギーばかり振りかざすのではなくて、日本の社会というものをより知って、日本の社会の一員として、そこの中でやれることから変えるということに徹していかない限り、思想は広がっていかない。本当の意味で根付いた思想にならない。

 また、民主社会主義はもともとそうした各々の地域において、各々の社会において、その考えを生かす思想で、ドグマではありません。この本を読めば、民主社会主義だという本はありません。マルクス・レーニン主義者は資本論を読めばすむでしょう。だから、私は資本論をどれだけ理解していると、今をもって、なにがしさんは、俺が一番理解しているのだと、実質的なオーナー気取りでいられるわけです。そういう思想ではありません。一人一人がそうしたことを理解し、社会に根付かせていくことだと思います。朗さんのご子息が渡辺周さんです。民進党の国会議員です。

 あちこちに話がとびまして、皆さんの役に立ったかどうかは、分かりませんが、今日の話を聞いたら、より混乱したから、少し膝詰めで教えてくれとなれば、時間が許す限りと言いたいですが、なかなかそうしたことは、僕は好きではない。だから、民社は伸びなかった。あとは、車座になって、酒をかっくらって、難しいことを言うことはやめて、カラオケでも行こうという人間がいれば、もっと伸びたでしょう。民社系の人にはそういう人が少ない。こうした会合が終わると、さようならと帰る人ばかり。みんなそういう傾向にあります。ですから、日本に根付くのはなかなか大変だと思いますが、これをもって最後にしたいと思います。どうもありがとうございました。

20160528_h_04寺井融氏の著書「本音でミャンマー」(カナリアコミュニケーションズ)を紹介する司会の三浦小太郎氏


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