【講演会・書き起こし】協議会第25回講演会「チベットの現状と今後の運動展開」

2017年3月11日(土)の第25回講演会の書き起こしです。
動画はこちらの記事をご覧下さい。


アジア自由民主連帯協議会第25回講演会「チベットの現状と今後の運動展開」
 
アジア自由民主連帯協議会 会長 ペマ・ギャルポ氏
2017年3月11日(土)
 
 こんにちは。きょうは長年、チベットに尽くされた方々、またいま頑張っている方々、たくさん見えていまして、本当にうれしく思います。
 本来であれば、五十数年間、私たちは毎年この時期に、来年、ラサで乾杯しようと言い続けてきました。きょうの題は「現状と今後の活動展開」ということですが、まず何よりも言わなければならないのは、これから話すことはすべて私個人の責任であるということです。もちろん、かつては政府の一員としてやってきましたが、特に政府、または活動している人たちを代表して話しているのではないことを前置きしたいと思います。
 日本で50年間生活をして、本来であればそろそろきょうの演説あたりで独立に向けてとか、あるいはこういう国をつくりたいというようなビジョンがあれば一番いいのではないかと思いますが、残念ながら60年近くなっても、チベット問題は悪化することがあってもあまりよくなってはいないと思います。もし、何か評価できるものがあるとすれば、チベット問題が世界的に一応分かるようになった。これは評価できることだと思います。
 ただ残念ながら、なぜそもそもチベット問題なのかということを考えると、やや喜べない部分もあります。なぜかというと、いまチベット問題で一生懸命にやってくださっている方々は、環境問題や人権問題を一生懸命にやっています。もちろん、これも大切な問題です。しかし、そもそもチベット問題とは何かというと、一国の独立国家が他の国に侵略された。そして、その独立をもう一回取り戻そうというのが本来のチベットの目的であり、またそれが目標であるべきだと思います。
 そういう意味では今もう一度、われわれも考えなければならない時期に来ているのではないか。幸いにしてというか、今の北京政府、一見、非常に強く見えますが、総合的に見ると、そろそろ自らのさまざまな矛盾から崩壊する可能性もないわけではない。かつて私の恩師の倉前先生が、ソビエトが崩壊することをおっしゃってご本にも書きました。そのときに周りから、そんなことはあなたの推測にすぎない、小説だと言われ、いろいろと批判を受けました。しかし、先生はもう一度ご本の中で、中華人民共和国という帝国も滅びる、そういう日が必ず来るとおっしゃっていましたが、残念ながら先生が健在のときにはそういうことが起きなかった。しかし、私はその予測が当たるだろうと信じています。
 現状について言う前に、チベット問題について、きょうはまず話をしたいと思います。一つは、私たち自身もまだ自分たちチベット人自身で確認しなければならないことがある。それは何かというと、今のダライ・ラマ法王の時代になり、初めて私たちはある意味で統一した国家になりました。それまでは中央政界がありましたが、世界中同じように、私たちも中世から近代に入るのに少し出遅れました。ですから、中華人民共和国という国がチベットを侵略したときは、まだチベット自身が本当に近代国家としての形があったかというと、必ずしもあったとは言い切れない部分があります。
 それから、日本が1860年代に明治維新を行いましたが、それまではたぶん、文化の面において、歴史の面において、あるいは民族の特有性において、どう考えても日本に負けないぐらいの国家としてチベットは存在したと思います。中国は、野蛮で非文明国家のチベットに文明の光を照らした。そして、そのためにチベットを封建社会から解放したと言っていましたが、たとえ封建制があったとしても、文明の面においては、ポタラ宮殿をご覧になっていただいても、あれだけの技術があの時代にあった。そして、チベット医学、あるいはチベットの占星術。あるいはチベットの歴史、特にチベットの歴史の場合には宗教を中心とした歴史ではあるけれども、すばらしい書物がたくさんありました。そして、インドの仏教の教えも、世界で一番多く翻訳されているのがチベットです。普通、私たちはお釈迦様の教えは8万4000あると言いますが、少なくともチベットで約4000が翻訳されています。中国では2000ぐらい翻訳され、日本には200ぐらいしか来ていないわけです。そういう意味で、チベットは決して非文明国家ではなかったということです。
 しかし、残念ながらチベットは、世界中が近代化して近代国家として中央集権国家をつくったときに、私たちはヒマラヤの奥地で自分たちだけの平和な生活をし、そして鎖国政治を約400年取りました。この鎖国政治により、私たちは自分たちの文化文明を発達させるには大いに役に立ったと思います。しかし、近代国家としては出遅れました。これがたぶん、私たちがいま直面している運命の原因です。
 1949年に中華人民共和国ができ、そしてすぐ毛沢東は、この革命は本来わが祖国、これは中国的なわが祖国ですが、わが祖国の領土を全部開放するまではこの革命は終わらない。そして、それはもちろん、チベット、東パキスタン、南モンゴル、あるいは日本の尖閣諸島、琉球、沖縄も含めてのことです。彼らが直接的、間接的に一度でも影響力を及ぼしたり、あるいはかつて朝貢を受けた国はすべて中国の一部であるという考え方に基づいています。そして1950年、一番近く、一番武装していない、お坊さんが27万から30万人ぐらいいても軍隊は2万人しかいない国、まさにどうぞ侵してくださいというような環境にあったチベットに入ってきました。
 そして、1951年に17条条約を結びました。17条条約を結んでから約8年間、1959年3月まで、残念ながらチベットは中国の一部でした。これは認めざるを得ません。なぜならば1954年、中国は憲法をつくりました。1949年に独立したけれども、中国は憲法ができたのは1954年です。このときにはダライ・ラマ法王もパンチェン・ラマ尊師も、あるいはそのほかチベットのそうそうたる方々が人民大会に参加して1票を投じています。給料ももらっています。しかし1959年、ダライ・ラマ法王がインドに亡命してから、テスブというところで3月に、もうあの条約は無効であることを発表しました。
 ですから、私個人の考えでは、あの瞬間からチベットは占領下の国家です。私たちはまだ国家であるはずです。なぜならばチベット人の自発的な、あるいはチベット人の同意を得て、いま中国がチベットを支配しているのではありません。彼らは約束をことごとく破りました。あの条約の中では少なくともチベットの外交、防衛以外のことに対しては尊重することを書いています。
 そして、それまで、本来であればダライ・ラマ法王は私たちの宗教、政治でも最高の地位ですが、パンチェン・ラマ尊師はダライ・ラマ法王の先生であり、決して副大統領みたいではないです。副王様でもない。中国はわざとチベットの中で分裂をつくるために意図的に法王、そしてパンチェン・ラマというような仕組みをつくり、そして中国はダライ・ラマ法王を中国とチベットが一つになるための準備委員会、つまり自治区の準備委員会の主席、副主席に任命しました。
 この状況においては、残念ながらまだ東チベット、そして今の青海省、アムド地方、この辺に関してもあまり明確なチベットとしての立場を明記していません。むしろ多くの東チベットの人たち、あるいはアムド地方の人たちも、長い間、中央集権に対し権威として存在したけれども、近代国家としての権力ではなかったと思います。ですから、東チベットで1957年、最初の決起が起きても、中国政府はこれという手を打つことができなかった。
 しかし、インドに来て1963年、チベットの各種族、各宗派のトップ、みんなが初めてダライ・ラマ法王を頂点とする、自分たちの、日本で言ったら藩の権限を当時、中央に返上したような形でインドのブッダガヤで誓いを立てました。そして、その誓いとは、最後の1滴の血まで祖国の独立のために使うということでした。
 さらにその後、1972年までゲリラ活動をしていました。そして、このゲリラ活動に関しては皆さんご存じのようにアメリカの支援もありました。インドは当初、あまり積極的ではなかった。インドとしては、特にネルー首相としては、できればチベットを不干渉地帯として中華人民共和国と直接ぶつからないために残したほうがいい。そこにアメリカとか、あるいはヨーロッパの国々が、もう一回、チベットを助けるような意味で入ってきたら、せっかく日本の先の戦争の結果、独立したアジアの国々、アジアにもう一回、西洋の勢力が帰ってくる。そのようなことは、ネルーは望まなかった。したがって、インドも最初はゲリラ活動、あるいはアメリカが関わることについては必ずしも積極的ではなかったのです。
 インド自身が中国と友好条約がありました。インドと中国は1960年代まではインド人の売買、バンドン会議においてネルー首相と周恩来、特にネルー首相の発想で平和五原則、パンチャシラを。パンチャシラはサンスクリット語で、中国語ではありません。日本の学者によっては、これは周恩来の哲学だと言っているが、周恩来の哲学ではないことは名前から言っても分かります。つまり、平和五原則の最も大切なことは、お互いの内政を干渉しない。他の国を侵略しない。主権を尊重する。
 ネルーは非常に理想主義的な要素がありました。ですから、例えば1957年、法王がインドをいったん訪問してそのまま残ろうとしたときも、周恩来が来てネルーを説得し、帰ってください、あとはわれわれが仲介して、チベット問題は平和裏に何とかしましょうというようなことを言っていました。しかし、1962年、インドそのものが突然中国に侵略されました。ネルーはショックを受けました。サッダ・パティルはじめ当時のインドの国民会議派の世間で言う右派、この人たちからも、「言ったじゃないか!」。なぜかというと、サッダ・パティルは1951年にもう既に武力を使ってもチベットを支援したほうがいいということを提言しています。しかしネルーは、いや、これは平和的に解決できる、周恩来と私の人間関係がある、などと言い、パティルさんとか、そういう人たちの意見は聞かなかった。
 ですから当然、インドは第1回目の中国との戦争では負けました。なぜ負けたかというと、インドは戦争するつもりがなかった。中国はチャンスがあればという準備をしていました。しかし、その中国の準備も当時はまだ不十分です。一つは、まだ道路がない。軍は簡単に入れない。それから、高山病にかかる。中国人自身はチベットへ戦いに来ても、高山病にかかる。だからモンゴル人とか、高地で戦える人たちを使って来ましたが、その人たちは積極的に喜んで兄弟たちを殺すようなことはしません。彼らはインドのアルナーチャル州から、2~3週間ぐらいで結局撤退しました。
 一昨年、僕はアルナーチャルへ行きました。そのとき、アルナーチャルの人たちが言うのは、決してその後もインド政府が力ずくで中国と戦い、あるいはインド政府が政治力で中国を説得して撤退したわけではない。何かというと、中国人が来て現地の人たちに、あなたたちは私たちと同じ顔だ、兄弟だ。あなたたちを助けに来たと言っても、彼らは兄弟ではない。中国は今のようにロジスティクスがないです。彼らは協力しなかった。食べ物でさえ協力しなかった。そして、冬になりました。そうすると中国は撤退せざるを得なかったのです。その後、ネルーの娘のインディラ・ガンジーは二度も中国と戦争したけど、勝った。それはインドも学ぶことがあった。
 ですから1962、63年になり、インドは初めてダライ・ラマ法王をインド国内において国家元首並みの扱いをするようになりました。そして、ネルーは法王に対し、長期戦になるかもしれない。だから私たちインド政府はあなたの国の人たちをいろいろな学校に入れたり、インド社会に受け入れるのは簡単だけれども、そうではなく、自分たちの学校をつくりなさい。チベットの学校をつくると、そこは私立の学校ですから、インドのカリキュラムをやらなくてもいい。そこでチベット語を教える。チベットの歴史を教える。チベットの文化を維持する。チベットの音楽を教える。そして、チベットの坊さんが一人、必ず学校に精神指導としていました。そういう配慮をするようになったのです。
 そのおかげで今日も、僕はときどき人民解放軍の柿色の軍人と、私たちの赤い色のお坊さんの軍人、どちらが勝っているというけど、世界的には私たちが勝っているだろう。なぜかというと、幸いにして1960年代、ベトナム戦争などもあり、アメリカを中心として、世界中のある意味で精神的な空白がありました。そこでビートルズやインドの聖者、聖マヘーシュ・ヨーギーとか、そういう人たちが出てきて、それと一緒にチベットの聖者ミラレパが最初に注目されました。それがきっかけで『チベットの死者の書』が外国の資料になりました。
 それから、チベットのお坊さん、最初に外に出て活躍したのは、スコットランドにいらした先生二人、それからのちに一人が交通事故に遭い、アメリカへ行ったのです。あれも偶然ではなく、本人が帰ろうと思ったときに車の事故に遭ったのです。たまたま運転していたのがアメリカの金持ちの女の人で、その人がアメリカに招待した。その人を通してアメリカで教えるようになりました。
 その次がカルマパ。カルマパに対しては中国人の香港にいる人が協力しました。それから、日本人でアメリカ人と結婚した龍村さんの妹さん。そういう人たちが少しずつチベットのお坊さんたちを西側に呼ぶようになった。最初はどちらかといえばカル・リンポチェやチベットの学者よりも行者の人たち、それからアメリカにおいてはアメリカンインディアン、特にホビの人たち。彼らの伝説の中に、いずれ東から赤い衣を着ているお坊さんが来る、聖者が来るというようなことがあった。そういうことで、最初はそういう人たちが私たちに関心を持ちました。
 日本でも、東大をはじめとしてインド哲学の延長線でチベット仏教がありましたが、残念ながら、それはあくまでもインド哲学の延長線でしかなかった。チベット仏教について研究している人はなかった。むしろ最初に関心を持ってくださったのが、いまホビット村にいる当時の日本のヒッピーたちでした。この人たちがチベットに関心を持ってくれました。世界全体が似たようなことだったと思います。
 正直言って、最近はチベットの支援者は外国でも金持ちがたくさんいますが、最初にチベットに関心を持ってくれたのは、どちらかというとヒッピーでした。何となくインドへ行き、そこで麻薬でもやり、そして人生を考える余裕のある人というか、そういう人たちがチベット仏教に関心を持ってくれたのです。そのおかげでチベットは知られるようになりました。
 そうこうしているうちに、1972年、中華人民共和国はアメリカと関係ができ、アメリカは私たちに対し、あと6カ月でゲリラに対する援助を打ち切ると言いました。そのとき、ネパール政府に対し中国、アメリカ、両方から圧力がかかりました。ネパールのマヘンドラ国王は最後の最後までチベットの人たちに対し、非常に親切でした。ムスタンを基地にして、われわれが中国と戦っています。
 そこで最後にゲリラの人たちは結局、ネパールからも追い出さなければならない。中国は向こうから追ってくる。法王は、少なくとも他の民族の地を私たちのために犠牲にしてはならない、ネパールと戦ってはならない。ですから、ネパール軍に降伏するということをおっしゃいました。最初何名かいて法王のそういう言葉を伝えていたけど、ゲリラの人たちはみんなあまり信じません。中には友達と。独立のために最後まで戦うと誓い、その友達が死んでしまっている。だから、その友達のためにも自分は戦わなければならないという人もいました。
 最後に法王の義理のお兄さんが法王のテープを持っていき、そのテープをゲリラに聞かせたのです。それでも一部の人たちは中国、あるいはネパール軍に降伏するのだったら自殺したほうがいいと言い、自分自身に鉄砲の銃口を付けて死んだ人もいます。もしかしたら僕の代わりに来る予定の人もいました。学校にいるときは何となく競争相手ですから、僕はその人のことを尊敬もしていなかったし好きでもなかった。しかし、僕が日本に来て数週間後に彼はゲリラに入った。そして、数年後に彼は死にました。
 そのとき、僕は彼に負けたような気がしました。それまで憎たらしいと思った人が急に恋しくなり、そして偉いと思うようになったのです。だから、その後の僕の日本での活動は、常に彼のことが頭の中にあります。もし私の代わりに彼が来ていたら、彼は何をやっただろうか。確かに、彼は生きているとき、命を懸けていたことに対し報われることはなかった。しかし、その尊い命を大きな目的のために捧げることができた。それを私はいまできていない。だから永遠に彼は、少なくとも私にとってはヒーローです。
 どこの国でも、最後においしいときはヒーローがたくさん出てきますが、歴史の中で名前も残らないヒーローが本当はたくさんいます。私たちと一緒になって戦ってくれた、アムドキャシという中国人もいます。彼はもともと中国の人民解放軍でした。しかし、途中から、中国のやっていることはよくないということで、われわれと仲間になってくれた。そして、一緒に戦ってくれました。恐らく彼のことも、チベットの歴史にも、中国の歴史にも載らないかもしれない。いずれにしても、この1970年代は私たちにとっては非常に大きな転換期でした。
 そして、70年代に米中国交ができ、世界全体ももはやゲリラ活動を支援するような社会ではなかった。唯一あったのがインドです。インドは当時、東と西に東パキスタン、西パキスタンがあり、アメリカは当時パキスタンを応援していました。中国もパキスタンと友達になりました。ですから、後ろからはチベット経由で中国、そして下からは共産主義者、そして横からはアメリカのCIAを中心として、当時のインディラ・ガンジーの、彼らが言う独裁政治に反対するインテリグループ、こういう敵対勢力に包囲されているような状態の中で、インディラ・ガンジーは思い切ってバングラデシュの独立を支援しました。
 バングラデシュは、最初の独立運動のときにインドに来て訓練を受けさせたのは7名しかいなかった。ちょうど僕の親が住んでいた家の大家さんが、?エセス・ウヴァンというインドの将軍で、彼が私たちのチベットの軍隊の軍事顧問であり、同じ人がバングラデシュの人たちも訓練しました。
 そのとき、インディラ・ガンジーは私たちにチャンスをくれました。チベット人がたくさんバングラデシュの独立のために戦い、そしてダッカまでは私たちのほうが本当は先に行ったのです。当時の新聞を見れば、正体不明の部隊となっています。正体不明の部隊はわれわれです。そのころのチベット青年会議の組織を見ると、中央委員会とか、非常に共産主義的な組織です。あのころになりデリー大学でやっと、年齢的に言うと私たちが難民になり、大学を卒業する人たちが出ました。そのときにチベットはまだ独立ということを言っていたから、青年会議の提案で高校を卒業したらいったんは必ず入る。彼らも入っているけど、私は日本にいたからサボってしまった。
 当時はみんな進んで入りました。なぜかというと目標が明確でしたから。しかし、アメリカが北京と仲良くし、1979年、ソ連がアフガニスタンに入った。ソ連はそれまで私たちのことを、北京政府と同じだったのですが反革命分子と。当時、共産主義は世界各国にあった。日本の中の学生運動もそうです。世界を共産主義化しよう、社会主義化しようという理想を持っていた。そういう時代の中において、チベット青年会議は独立することを目標にした。チベット本来の、1963年にインドへ来てからみんなが誓い合った三つのチベットの州が全部入ったのが今のチベットの地図で、チベット青年会議のマークになっています。それがチベット人の目指すチベットでした。
 北京政府も1980年代まではそれを認めていました。いま言った1979年、アフガニスタンにソ連が侵入し、当時はまだソ連でしたが、ソ連のラジオ放送で、それまではわれわれのことを反革命分子と言っていたのが、いきなり民族自決のために戦っているチベットになったのです。それから、ダライ・ラマ法王のソ連訪問を歓迎しました。赤いじゅうたんを敷きました。
 北京は1966年からいわゆる文化大革命に入り、1976年、ほとんど国はもう貧乏でした。そして、お互いに信用もできない。ちゃんとした学校へ行っている人もいない。みんな『毛沢東語録』さえ持っていればよかった。結婚式のお祝いも『毛沢東語録』をあげなければならない。だから『毛沢東語録』は1人5~6冊持っていたけれど、それ以外の教育をちゃんとしていないような状況だった。
 そのときに鄧小平は、もちろん世界に対し柔軟な姿勢を見せなければならない。だから、1979年にダライ・ラマ法王のお兄さんと会った。そのときに法王のお兄さんに対し鄧小平自ら、独立という言葉以外だったら何でも話し合う用意がある。それも独立は駄目だと言ってないのです。独立という言葉がいけない。また、オーストラリア、ニュージーランドなどからも、あなたたちを応援するけれども神聖政権は応援できない。デモクラシー、あなたたちが民主化をやるのだったら応援しよう。似たようなことをヨーロッパの国々も言い始めました。
 法王自身は即位してすぐチベットの改革に入ったのですが、最初は中国の邪魔が入り、国内では思うようにできなかった。まだ法王は若かった。法王に対しこういう言葉は失礼ですが、本当にかわいそうなぐらいで、まだ17歳になるかならないかですべての責任を負わなければならなくなったのです。チベットの悪いところは、きょうはチベット人の前で、もしほかのことを聞いたら怒られるかもしれませんが、私たちは人間が努力をして神様に頼むのはいいけれども、人間が努力しないで神様のせいにする。だから神様にいろいろ聞いたりお祈りをしました。チベット全土で、平和のために各お寺でお祈りをしていました。しかし、法王の国内における改革はできなかった。
 中央チベットには小作人制度がありました。これはたぶん、中国政府のうその中にも本当が少しあります。だいたいのうそには、みんな、少しは本当があるのですが、その小作人が地主から土地を借りたり、あるいは年貢を納めるときに納められなかった分に関して誓約書を書いたりした。それをチベットで法王が即位してからは全部破った。東チベットにはそういう制度がなかったけれども、西チベット、中央チベットではそれを全部破り、そして人々に対し、あなたたちが地主だ。そういうことをした。法王は、唯一それだけができたのです。
 しかしインドへ来て、1963年に初めて暫定憲法というか、将来の憲法をつくりました。憲法をつくったときも、僕の父親の年代のチベットの人たちは、とんでもない。やはり法王があくまでも法律もつくるし、法王の言葉が法律だ。そんな法律など要らない、憲法など要らない。ましてや、あの憲法の中に、法王の地位に対しても書いてあるのですが、もし法王がふさわしくないときは議会によって弾劾できることになっている。それを見て、先輩たちは怒りました。法王の権限、法王をそのように縛るのはよくないと言った。
 しかし、最終的には法王が説得した。みんなが納得というか理解して、何をしたか。たぶん、半分以上の人は新しい憲法を読んでないです。神棚に置いているだけで、法王からいただいた民主主義。残念ながら、チベットにはそれまでも民主化の運動はなかったわけではありません。しかし、民主化運動をやろうという人はきちがいだと言われ、刑務所に入ったりしたのです。
 ですから、亡命先において私たちは法王から、少なくとも1960年代にもう民主主義の方向性を示す憲法ができました。最初の憲法の議員たちはみんな元豪族、元貴族、あるいは各宗派の偉いお坊さんたち、みんなそうそうたる方々でした。英語の読み書きはできませんでした。ドイツと日本がどこにあるかもよくわからないような人だったと思います。
 しかし、彼らにはオーラがありました。例えばいま、僕のために死んでくれと言ったら、死んでくれるチベット人は一人もいないと思います。しかし、その当時の法王やラマとか、そういう人たちが言ったら、死んでくれる人はたくさんいました。そういう人たちにより、議会をつくりました。しかし、さらにそれを進め、1970年代になり法王は、中国共産党のもとではなく海外で直接国民が選挙する議員制度をつくりました。そして、最初は大臣たちを法王が任命して議会が承認する。やがて議会が指名して法王が任命する。段階的に民主主義をきちんとやってこられた。
 そして、?2004年ぐらいになり、今度は法王が政教分離をして法王自身の宗教的な地位から下りた。それが?1997年ごろになり、初めて私たちは直接選挙で総理大臣を選んだ。そのときはまだ元首の形で法王がいらしたのです。?1911年10月、このときに法王は完全に自分は退くとおっしゃっていて、私たちは、直接選んだ総理大臣が少なくとも政府の代表としてトップになることになりました。一方、ヨーロッパの国々は中国との対話、そしてチベットの過激的な活動は支援しない。また、チベットの人たちもだんだんと大学を出て、頭がよくなったのです。世間に対し何を言ったら支持してくれるかが分かるようになりました。
 確かに、そういうことで、いま私たちは世界中にチベットのことを知ってもらう意味では、1961年、1963年、1965年、3回、国連でチベット問題を取り上げたときも、?パレスチナと私たちの立場はよく比較されました。しかし、あのときは私たちのほうがはるかに政治的には国連で3回も決議が採決されるということで、少なくとも政治的な問題としては重要視されました。おかげさまで79年から90年ごろまで、北京政府とジワリジワリ対話をしてきました。その間にチベット問題についても、ヨーロッパの国々をはじめ、特に人権という側面から支援者が増えました。
 チベットの環境問題について最初にやってくれたのが、ドイツの緑の党のペトラ・ケリーです。チベットにおいて核の廃棄物とか、そういうものがあることと、ドイツのシュミットさんと鄧小平の間に、チベットに核の廃棄物を捨てる場所を提供する交渉があることなどを告発してくれました。その辺からチベットの人たちも、いわゆる環境問題で中国がどんどんチベットの環境を破壊してきているようなことで環境問題に用いました。
 それから幸いにして、1979年から80年の間によかったことは、それまでチベットの外にいる人たちと中にいる人たちが会うことができなかったけれども、この間に北京政府は、家族は会ってもいいということで、私たちのいる本土というか、国内からも、インドに来る人が増えました。一時、私たちはチベットのお寺にお坊さんが足りないから、ネパール人とか、ブータン人とか、ラダック人とか、要するにチベット文化圏の人たちをたくさん入れましたが、1970年代後半ぐらいになるとチベット国内からたくさん入ってきて、みんなお坊さんになりたがる。もちろん、お坊さんにならない人もいたけれども、だいたいお坊さんになり、お坊さんも増えました。そういうことで、チベット文化の維持、チベットの環境問題を世界に認知してもらう意味では、大変成功したと思います。
 しかし一方、何のためにチベット人はデモをやっているか。何を目指しているのか。これから先、チベットが何を目標にしているかということになると、非常に抽象的なことになってしまいました。高度な自治もそうです。もちろん、法王の立場からするとそれしか選択はないと思います。なぜならば、いま消えつつある文化を保つことが必要です。しかし、私は一個人のチベット人としては、みんなが法王のように偉くないと思います。みんなが法王のように慈悲に満ちた人ではないと思います。みんなが自分の親戚や家族の人たちが殺されているのを許せるような、そんな寛大な気持ちは持っていないと思います。
 何よりも中国のほうの政策が変わらない。むしろ中国はこの約20年間、対話を利用して、着実にチベット国内において道路をつくり、高校をつくり、電車を引っ張ってきて、彼らの支配をより確実なもの、より充実したものにした。そして、東パキスタン、あるいはモンゴルのように、中国人の移民がどんどん減ってきている。北京政府の話では、2016年1年間の観光客は2000万人を超えたという。日本がそのぐらいで喜んでいる。チベット自治区でもし2000万人いたら、一般の人たちはもっと金持ちになってもいいと思います。しかし、そこに入っていくのはほとんど中国人です。観光客も中国人。外国人はあまり入れない。それもすべて彼らの、いわゆる?Assimilation、同化政策の一環としてやっている。
 一方2007年、つまり2008年のオリンピックの前の年になると、例えばダライ・ラマ法王の代表との対話を、私たちは、できれば第三の国でやりたいと最初から申し込んでいるのですが、北京政府はそれをしません。なぜかというと、彼らからすると、これは国際的な問題ではなく国内の問題であるという前提です。ですから、ほとんど北京とかへこちらから出向いた。
 例えば僕自身、1985年5月から8月まで3カ月行ったとき、私たちの任務はチベットの国境を明確にすることですと。話し合うための、まず国境を明確にする。話し合いのための話をする。ですから、私たちは今の雲南省の昆明まで行きました。つまり、雲南省にも三つのチベットの県があります。それから、もちろん四川省、さらにはアムド、青海省、甘粛省。そのとき、中国政府は僕たちと同じ概念でしゃべったのです。もちろん、彼らの心の中は違う。しかし、一応チベットとしてしゃべっていました。
 私たちはせめて香港ではどうですかとか。日本も候補に挙がっていたことがあります。ただ、残念ながら私たちは、日本はあまり。むしろ中国のほうが日本に対してはちょっと好意的でした。なぜかというと、私たちは日本政府、あるいは日本のメディアが必ずしも私たちに味方するとは限らなかった。だから、むしろシンガポールとか。
 しかし、それも2007年になり突然、北京政府はスイスでやろうと言い、スイスでできた。そのときは、北京政府も少し頭が軟らかくなったと喜んだのです。大使館の人も来て参加しました。写真をみんなにばらまいた。法王の代表と中国の民族委員会副主席、副大臣級です。しかし、本当はオリンピックをやるために、あるいはオリンピック招致のために、世論をつくるために中国が利用した。これは後になって気が付きましたが、後になって気が付いても遅いです。
 そして、オリンピックのとき、これは確かに世界中の方々が中国の本性を見たと思います。中国もあの時点からだんだんと傲慢になってきている。経済力も付いている。政治力も少し出てきた。最初に火をつけたのは英国です。英国のデモ隊に対し中国のデモ隊が邪魔をしたり。それから、それらをずっと回り、日本でもきょうここにいらっしゃる方々はたぶん、それがきっかけでチベット問題に関わった方も多いと思います。
 現状から見ると、中国政府は本気でチベット問題を解決しようという気持ちは、私はないと思う。彼らが本気で話を進めるためには、もっとわれわれのほうから意思表示が強くあり、国際社会も環境問題、人権問題だけではなく民族自決権の問題、そして現在の中国、中華人民共和国ということを。特に日本などは何か、昔からあんな広い国があったかのような幻想を抱いている人たちが多い。
 モンゴルは、モンゴル自ら1940年代に満州国のようにやりたいからと言って日本に協力を求め、日本が先にモンゴルへ行きました。中国人よりも日本人のほうが先にモンゴルへ行きました。そして、モンゴル人が日本へ来て訓練を受けた。彼らは満州国を見て、日本人は学校をたくさんつくった。軍人も協力してくれた。しかも日本からは、満州に皇室の方がお嫁にまで来てくれている。モンゴルは結局、日本が1945年に撤退せざるを得なかったので、国民党が入ってきた1947年に、いわゆる自主国家にしました。1955年にウイグル、1965年にチベット。私たちが亡命してからチベットの共産党の支部ができたのが65年、正式にチベットが自治区化したのも65年です。
 国連の決議は、確かに世界に対し私たちに正義がある意味では役に立った。例えば、この前のフィリピンの問題でも、南シナ海、少なくとも国際法の下では中国のものではないことがはっきりした。しかし、中国があそこを押さえていれば、それに対し今の国際社会は何もできないです。これが、私たちが抱えているジレンマです。
 先週のニュースでは、チベットに世界で一番長い723メートルのトンネルができたとか、世界で一番高い海抜4700メートルのところに空港ができたとか、おめでたい話が中国側からたくさん流れています。しかし、それがチベット人にとって何の意味があるか。むしろチベットのアイデンティティを奪い、自立性を奪い、そして同化政策および植民地支配をさらに強化する以外の何ものでもないと思います。
 彼らが言うチベット、つまりチベット自治区だけで九つぐらいの空港ができた。僕は、たぶんあれは、いずれインドとの戦争などを考えて軍用として使うためだと思います。今の中国の現状、そしてチベットの現状から見ると、そんなにお客さんはたくさんいない。彼らが言うには、1日75万人の人たちを受け入れられるような態勢をつくるというのです。ニンティは雲南省にも近い。それから、ビルマにも近い。当然、バングラデシュ、インドにも。
 インドはいまハラハラしています。インドはいま、一生懸命に汗をかいています。自分の住む後ろに中国がどんどん道路を整備し、基地をたくさんつくっている。ダムをたくさんつくっている。今月初めにインドと中国の外務次官同士の国境問題および彼らが言う戦略的対話をやったのですが、中国が非常に傲慢になってきています。インドに対し、いま、われわれとインドとの対等な話をすると言っても、自分たちと私たちの立場を考えなさい。今のわれわれの世界的な立場は、インドとは話にならないというようなことを言っています。
 それに対し外務次官はすぐ答えなかったけど、メディアにおいては、いや、違う。あなたたちは世界中でいま、本当の友達はパキスタンしかない。しかし、インドはとにかくいろいろな国と仲良くしている。何よりも国民が選んだ政府であり、民主主義というものをインドは保てている。中国の場合には、その民主主義がないから国民も果たして国を積極的に支えているかどうか。だからあなたたちのほうがいつ壊れてもいいような政府だ、とはっきりと言いました。
 われわれのほうは少なくとも別に誰か指導者が落ちても、どの政党が落ちても、別の政党が出てくる。だからわれわれのほうが強いということを、メディアが一番反論しています。実際上、いま南シナ海や東シナ海、尖閣諸島の問題では記事にもなっているけど、いま中国はインドに対しても挑発的な行為をどんどんやっています。インドのすぐそばの国々に対し、ちょっかいを出している。だから、いまアジア全体の平和と安全を考えるときに、一番のがんになっているのは北京政府だと思います。しかし、その北京政府のアキレス腱は私たちです。
 60年たっても、まだチベット人の心を支配しているのはダライ・ラマ法王です。今回、北京政府は、ダライ・ラマ法王は人をだますような上手な俳優になったとか言って批判しています。これは、法王が中国の頭の固い人たちの脳みそは少し欠如していると言ったことに対する反論です。同じインタビューの中で、インタビュアーのコメディアンが、焼身抗議をやっている人たちについて質問しました。
 しかし法王は、これについては私は答えたくない、答えたらまたその家族にまでいろいろ影響を及ぼすから。そこで法王は、たとえ話として、例えば法王は最近モンゴルにいらした。モンゴルへいらしたら、モンゴル人はみんなウオッカばかり飲んであまり建設的に仕事をしていない。法王はモンゴル人に、あなたたちはウオッカを飲むよりも馬の牛乳を飲みなさいということをおっしゃったら、いまモンゴル人の多くの人たちが酒はやめたということをおっしゃっています。つまり法王は間接的に、たぶんまだ、自分の言葉一つによって国内にいる人たちがいろいろな動揺をしたりする。だから自分の言葉の影響力ということを、法王自身が一番認識している。
 法王は去年、ちょうど横浜の教えの最後の日に、あした私はモンゴルへ行くとおっしゃったから、その日のうち、夕方にはもう中国政府はモンゴルに圧力をかけ始めました。しかし今回、モンゴルは自国の主権の問題ですから、法王を招待して実現したのです。いま法王がおっしゃったチベットの質問に対し、モンゴルのことをおっしゃったことは、たぶん私はもう一つの質問に関連すると思います。
 もう一つの質問は、法王が最後の法王であるかというものだったのです。これはなぜかというと、いま北京政府が一番気にしている。北京政府から見ると、チベット問題は法王がもし他界したらどうにでもなると思っていると思います。ですから、台湾もある意味では時間稼ぎのようなもので、特に2012年、今の習近平政権ができてからは一度も対話ができてないです。
 彼らが言うには、法王はお坊さんの衣を着たオオカミだとか、今回のように人をだますのが上手な役者だとかいろいろ言っているのですが、一番の問題は彼ら自身が誠意を持っていないことです。法王、あるいはチベット側からは対話を通して北京政府を一度も裏切ってないと思う。むしろ、私たちは過剰な期待を持ち過ぎてしまい、振り回されている。誠意を示すべきなのは北京政府です。そして、国際社会の一員としての立場も。
 歴史は私たちが行うさまざまな運動の正当化にすぎないと思う。正当性があるということ。例えばチベットは中国に一度も直接支配を受けたことはない。中国人に、ではチベットを支配していた人、チベットの総督だった人の名前を言えと言ったら、言える人はいないと思います。少なくとも1950年以前にはです。中国だけではありません。インドの支配も受けていませんし、どこの国の支配も受けていません。そういう正当性に関しては、歴史は大切です。
 しかし大事なことは、未来につながるのは今の人たちの意思です。今の人たちの意思を考える場合に、私は残念ながら、私たち外にいる人間と中にいる人間の間に差があるような気がします。これは私個人の考えです。私たち外にいる人間は一生懸命に頑張っています。あちらでデモをやり、こちらでデモをやり、あちらでイベントをやり、一生懸命頑張っています。しかし、本質的なものに対し私たちはいま十分に声を出せるかというと、社会に今いるものですから、どうしても世論を?受け取る。国内にいる人たちは、毎日自分たちはいやな中国人と一緒に生活しなければならない。毎日差別を受けている。毎日不自由を感じている。毎日監視されている。車にも全部GPSを付け始めている。上にいる…?…がどんどんこちら側に対して。そのうち、たぶん人間にも何か、そういうのを付けるかもしれない。
 ですから中にいる人たちは、特に1987年から事実上はまだチベットに対する戒厳令が生きています。当時の喬石さんの命令で無差別に撃っていいことと、5名以上の人間が許可なしに集まった場合には集会と見なされる。ですから、いま単独行動を取るしかない。単独行動を取ることは焼身行為しかない。もし中国が言うようにチベットがみんな幸せになって近代化していったら、たぶん焼身行為をする必要はないと思います。
 確かに、いま北京政府は、特に習近平になってから、例えば今回も3月10日の決起記念日の前にチベットのお寺にお坊さんたちを呼んでお金を配っています。お寺に対しても、協力的なお寺に対してはお金を配っています。個人でも1100ドルぐらいのお金。それは中国としては二つの意味があります。一つは、チベット人の仲を悪くさせるために、わざと、一部の人たちは協力者だ。そして協力者に対してはご褒美をあげ、同時にほかのチベット人からすると、あいつらは売国奴だということになる可能性がある。そうやってチベット人の仲を悪くさせるための意図的な行為。もう一つは、たぶん中国は再び外国から彼らが選んだ学者、視察団を利用し始めました。このような人たちがそういうところへ行き、中国はこんないいことをやっている。
 インドネシアなどは最近、チベット問題を非常にたくさん書いてくれるのですが、一昨年、イスラム系の国々の人たちをウイグルに連れていき、ウイグルの教会でちゃんとお祈りしているようなところを見せ、それを帰ってきてからみんなに書かせている。チベットでは昔からやっていたことです。ついでに彼らに、チベットのことを洗脳しています。
 だから、いまインドネシアとか、あの辺の新聞はチベットについてはしょっちゅう書いています。書いているけど、それは中国がチベットですばらしいダムをつくったとか、世界で一番高いところの空港ができたとか、そういういいことをたくさん書いている。彼らはまだ中国のそういうやり方に対し免疫ができていないから。
 北京政府は、2010年ごろから宗教委員会がお坊さんたちの認定に対し干渉する法律までつくりました。これは僕の推測ですが、たぶん法王が政教分離をやったことに対し、一つは、ダライ・ラマ法王はチベットだけではなくチベット仏教全体の法王です。ですから、次のダライ・ラマどうこうと言ったときには、チベット人だけの問題ではありません。チベット仏教界全体の問題です。モンゴル、ブリヤート、カルムイク、ラダック、ブータン、あるいはアルナーチャル、広範囲の人たちがチベット仏教徒です。そして、さらにいま世界中にチベット仏教徒が増えています。しかし、もしそれが、政教が一致だったら、これはチベットに限定される。もう一つは、たぶん法王ご自身がチベット人の性格を一番ご存じです。法王がいらっしゃるときに民主化すれば、法王がそれを見届け、法王の下で着実に少しずつ成長していくかもしれない。もし法王がいらっしゃらなかったら、われわれは騎馬民族ですから、みんなで誰かに従おうというのはあまりしません。一人一人がボスなのです。
 そういう意味では、法王の一番の業績は、海外において、あるいはチベット社会において、民主主義の土台をつくってくださったこと。これは歴代の法王がしなかったことで、たぶん14世が歴史に残ることだと思います。
 しかし、一方において私たちは何もかも法王任せにしていて、そのおかげで逆にみんな法王の言葉まで勝手に解釈して、そして何かすると、いや、それは法王の意思に反するとか。それにより、北京政府も逆にそれを精いっぱい利用している。私たちが難民になって誇れることは三つあると思います。一つは、いま申し上げた法王のご指導の下で民主主義の制度、民主主義は宗教ではありません。民主主義はあくまでも一つの政治のシステムにすぎないのです。だから、そのシステムを導入する知恵、その制度については法王が土台をつくってくださっている。
 もう一つは、難民社会を中心にしてチベット仏教、チベットを世界中に知ってもらう意味で、ほかの難民よりもたぶん成功していると思います。
 三つ目は、中国が持っていないものを法王が持っています。中国が持っているのは核兵器です。しかし、私たち人間一人ひとりの中にも核兵器のようなものはあります。この核兵器をコントロールする意味では、北京政府のリーダーたちは法王のまねはできない。だから彼らは法王が怖い。北京政府があした民主化しますということで自由な選挙をやる。この場合にチベットも含めてやったら、恐らくマンデラではないけど法王が大統領になる可能性はあると思います。中国人に対しても、習近平に勝つ可能性は十分にあると思います。この三つは私たちの強みです。
 しかし弱いところは、いま中国が崩れかかっているのに、それに対し準備がないことです。それと、チベット問題そのものの正当性。環境問題は中国にもたくさんあります。インドにもあります。人権問題も同じだと思います。もちろん、私は日本へ来て近代教育を受け、人権は大切ではないことを言っているわけではありません。環境が大事でないということでもありません。実際、生きていく上において、私たちが日ごろ忘れている空気でさえも、汚染されていたら大変です。それぞれの国の税金の使い方により、この空気がどうなるかということを考えたときに、それぞれの政府のそのやり方は非常に考えなければならないことだと思います。
 ですから、たぶんそろそろチベット国外においても、政党政治のようなものは段階的にこれからの活動としては出現してくるだろうと思う。それがないと、次のビジョンがあまり生まれてこないのです。亡命政府としては、政党をつくってもいい。政党はあるとおっしゃっています。実際、確かにあります。一番初めにできたのは1970年代にチベット共産党ができました。それから、チベット民主党ができました。国民民主党ができました。
 しかし、ほとんどは仲良しのクラブみたいなことで、まだ政党としての形は整えていません。そういう候補者も出していません。そういう意味では、運動の展開の流れとしては、中国人に対してもわれわれは何を求めているかということを、もう少し明確にする意味でも、そういう政党がちゃんと出てきて主張があったらいいなと私は思います。
 今後の活動の展開ということについては、残念ながら現在、私は亡命政府の議員でもないし役人でもないので、こうだということは言えません。ただ、今までの流れからすると、そろそろそういう政党政治、しかも中国に先駆けて政党政治を行うこと。そして、それが明確な目標を持たないと。今やっていることは、ただ抵抗しているだけです。そういうことで、僕は今まで支援してくださった方々、いま支援してくださっている方、これから支援しようと思っている方々に対しても、やはりチベット運動というものの今までの流れ全体を考えてみて、次の段階を考えてほしい。このことをきょう、強く申し上げたいと思いました。
 もう一つは、やはりチベットだけではできません。このチベット問題を解決するためにはウイグルやモンゴルとか。しかし、残念ながら先週もどこかのチベットの会合にいきなり誰かがウイグル人を連れてきて、チベット、ウイグルが一緒になったなんて言っても、そんなに簡単ではありません。基礎的な人間関係が必要です。
 1990年代にありました。今回、僕は学校を替わるものでいろいろ整理したら、当時の雑誌がいくつか出てきました。それを読むと、あのころは、モンゴル人とチベット人と東パキスタンの人にしょっちゅう会っていました。そのころの人たちはお互いの基礎的な信頼関係、人間関係が十分にできていた。残念ながら今のところ、まだ私たちはそういうことが十分にできていません。そこにアジア自由民主連帯協議会が多少なりとも、そういう場を公論としてつくることが目的で今やっているわけです。
 いまチベットとモンゴルはウイグルのおかげで、ある意味で本当に助かっている。ウイグルは一生懸命です。抵抗している。だから彼らはアメとムチを使います。かつてわれわれを弾圧しているときはモンゴルを非常に優先して、モンゴルにアメを与え、われわれにムチを出していました。今はウイグルにムチを出し、国境線にもすごい警備をしたり、ウイグル人に外からテロとの関係があるとかいうことを言っている。かつてわれわれに対しても同じことを言っていました。アメリカがやらせているとか。まあ、多少本当です(笑)。しかし、アメリカ人に命令されてやっているわけではなく、われわれがやることをアメリカが援助しているにすぎなかったと思う。
 私たちは、いきなりチベットはこれから引っ越しますからと言って、地図上にハサミを入れて切って、どこかへ持っていくようなことはできません。今回のようではなく、長い歴史の中で仲良くやった時代もあります。お互いにそれによって得たこともある。法王がときどき冗談でおっしゃるのですが、われわれチベット人はおいしいものを食べようと思ったら中国です。精神的に高めようと思ったらインドで哲学です。チベットの政治制度はモンゴルでした。ですから、ダライ・ラマ法王のダライもそうだし、ホトクトとか、ザザルとか、そういう肩書、日本語も西洋からバロンとか伯爵、男爵を取り入れた時代があったのですが、チベットの場合、1950年代までは内閣の大臣、大臣だけではなく個々の位はザサルなのか、モンゴルの肩書を使ったのです。チベット人はモンゴルが大好きです。これも満州人のおかげです。
 ですから、お互いに対等、平等の下で暮らすことができないことはないと思う。ただし、どちらかが属国になり、どちらかが宗主権があるとか、あるいは支配者になることはたぶん、あと100年たっても成功しないと思う。1000年たっても、たぶんチベット人、あるいはモンゴル人が生きている限りは、喜んでそういう支配を受けることはないと思います。
 最後に、残念ながら小さい国の運命は小さい国で何とかなるわけではありません。今後の米中関係、中印関係、あるいは日本もアジアにおいてだんだんと主役の一つになりつつあると思います。この辺がチベット問題も含め、現在の中国に対し、何をどう考えるかです。ローマ法王とレーガン大統領はソ連を崩壊させることに成功しました。今のトランプさんはこれからどれだけやるか分かりませんが、レーガンさんを手本にしているということで、いま見ている限りでは多少、レーガンさんのかつてやった、例えばソ連との軍事競争、そして東ヨーロッパの国々に対し民主化運動を側面から応援してやり出した。
 そういう意味で、今たぶんトランプさんは一応、試しに例えば一つの中国ということに特にこだわる必要はないのではないか。民間の利益を考えながら変えることもあり得るということを言ったりしている。
 あるいは中国は、ティラーソン国務長官が長官を任命するかどうかと外交委員会で話したときに、今後、北京政府は法王と対話するように自分は力を貸すと言い、そして法王と会うことについても前向きな姿勢を示したり、それからインドが法王をアルナーチャル州にお招きすることに中国は怒っています。法王は実際、アルナーチャル州から逃げてきたから、その後も一度、?1910年11月でしたか、いらしたことがあります。そのときも、北京政府はすごく反対しました。インドの…?…大統領も、今回法王と同席しました。これも久しぶりのインド大統領の同席です。
 今度法王がアルナーチャルにいらっしゃるときは、インドには連邦大臣と国務大臣といますが、国務大臣が同行する。中国が内政干渉する立場ではない。インドの中で法王がどこへ行っても、インドの主権外のことだということを言ってくれたり。
 それから、アメリカの大使が亡命政府の総理大臣を食事に招くとか、これは全部政治上の演出です。それぞれがメッセージを送る。相手を試しながらやっている。そういう意味で、いま中印関係においても、あるいは米中関係においても、チベット問題は台湾問題と同様に中国が言う核心的利益、すべて駆け引きの材料になるということです。ネゴシエーションの材料になるということです。
 そのときに、私たちがどれだけ自分たちの価値をカードとして使う側に認めてもらうことができるか。相手がただ将棋の駒として使うだけになるか。それとも、私たちはある程度、自分たちの存在、意思を持って意識的に利用されるか、ということが大切だと思います。そのためには、亡命政府としては対話がいつでもできるように、タスクフォースの会議も人材もできています。あと、アメリカがどのように推し進めるか。それから、アメリカの国連大使もインド系アメリカ人です。現段階においては駐インド・アメリカ大使のリチャード・バーマーさんもインド人です。しかも、彼は僕が日本へ来た後にアメリカへ行った人です。状況をよくわかっている。
 僕が言うのではなく、いま私が言っているのは、実は中国が言ってくれている。中国が、アメリカやインドはダライ・ラマカードを使うことはけしからんと言っています。カードとして認めてくれています(笑)。そのカードを使い過ぎると両国関係に悪影響を及ぼすことを言っている。中国は幸いにして去年11月の東京における…?…大会に頑張ってくれた人たちを誇りに思ってもいいと思うのは、北京政府をちゃんと見てくれている。そして中国の新聞でも、日本政府は、五独の裏に魔の手が回って中国から独立させようとしている。本当にそういうことがあればありがたいことです(笑)。
 もしかしたら中国の予言で、将来そうなるかもしれない。今までは三独。それに今度は台湾と香港を加えている。別に、香港が独立してもおかしくないと思います。アメリカ自身が英国から分離独立したわけですから。あれが本当の分離独立です。われわれは分離独立ではなく、もう一回独立を取り戻すだけです。香港が分離独立しても十分に可能性があると思います。全くあります。台湾はもちろんです。
 そういうことで、チベットの全体の運動については、私はここでこれ以上のことは言えませんが、アジア全体の平和と安全を考えたときに、チベット問題、あるいはウイグル問題、そしてモンゴル、台湾……、台湾などは特に日本にとっては本当に重要だと思います。そういう意味で、私たちがやっている自由アジアも、ただ酒が飲みたいからみんなで一緒に集まっているものではなく、ある意味ではもしかしたら歴史の中に何か貢献して、いずれ書かれるようなものになるのではないかと思います。しかし、そのためには、今は大変苦労しているし、僕のように心配ばかりかける人が上にいると、時間のことから、人を集めることから、ますます大変だと思う。でも歴史は全部…?…だと思う。小さい灯から大きな大火になり、やがてそれが大きな山火事になり、それからまた新しく再生してくるのです。
 これから大国がチベット問題をどう見るか。国連においてもう一回チベット問題を提訴しようということで、今いろいろな動きがあります。また今度、日本大使が代わるでしょうし、ケリーさんはアメリカの国連大使は誰が味方か、誰が敵かということをちゃんとチェックしますよと言ってくれています。私たちの問題が国連でかつて取り上げられたときも、チベットと関係のないニカラグアとか中南米の国々がスポンサーになってくれた。それは私たちではなく、アメリカがそうしろと言ってくれたからできるのです。
 だから今後も、大国がそういうことを決めてくれたら、私たちのためではなく大国自身の利益のためにも、アジア全体の平和を考えたときに、世界の屋根が雨漏りしていてはどうにもならないと思います。そういう意味で、地政学的な観点からも私たちがアピールするというか、考えるというか、そういうことも必要だと思います。
 何となくあまりまとまらない話をしましたが、きょうはこの前から何をしゃべろうか。一番いいのは、本当はチベットの独立のために筋道がこうだとか、何かそういうのがあればいいのだけど、それも今ないし、だからと言って諦めてここで片付け、ただ一人の人間、地球人として何か環境問題とかそういうことだけを言い、あるいは学校から給料をもらって生活してそれでいいかというと、それはどこかで諦めきれない部分が人間としてあります。
 僕は大学院のときに先生から、あなたの論文は感情的で論文になっていないということを言われました。テーマは「民族主義と国家」でした。僕は、民族主義そのものが感情的なのに、先生、どうして感情的なのはいけないのですかと反論しました(笑)。
 結局、たぶんそうだと思います。私たちが理論的に全部合理的に考えることもできないと思います。しかし、やはり人間ですから、どこか感情というものがあり、そして自分のアイデンティティ、自分の存在、自分の尊厳……、だったら自分のコミュニティ、自分の国、自分の民族のものをたぶんそう簡単に捨てきれない部分も背負いながら、そういう矛盾を感じながら頑張っていくしかない。それが、きょう、この時点の私の心境です。
 本質的なチベット問題は、何度も申し上げるようですが、私の気持ちでは、チベットが完全に自由と独立を勝ち取ることです。これは私個人の願いです。これはチベット憲法でもちゃんと自由を認めています。これからも支援していただきたい。恐らく、ウイグルにしても、モンゴルにしても、似たような気持ではないかと思うし、13億人のうち、少なくとも12億人は中国人。この中にはチベット仏教を信仰している中国人も、パンチェン・ラマの話だと3億人はいるとおっしゃっていました。そして、恐らく自由と民主主義を求めている人たちが大多数だと思います。サイレントマジョリティがいるわけです。今後、そういう人たちとの連帯、そういう意味で連帯という言葉は何らかの形でそういうつながりを持っていこうということを考えています。
 私の一方的な話はこれぐらいにします。質問がありましたら、後で質疑応答で答えたいと思います。どうもありがとうございました。



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