【第35回・報告記事・動画もあり】アジア自由民主連帯協議会「チベット決起60周年記念講演会」報告

 アジア自由民主連帯協議会講演会、チベット決起60周年記念講演会の報告です。



第一部「兄・ロディ・ギャリの闘い」ペマ・ギャルポ(協議会会長)報告

 3月10日、東京四ツ谷の会議室にて、アジア自由民主連帯協議会主催「チベット決起60周年記念講演会」が開催され、約40名の参加者でほぼ会場は満員となりました。本日は浅草でチベットデモも行われ、そこからの参加者も多くおられたようでした。
 まず、この講演会に、杉田水脈衆議院議員から以下のメッセージが寄せられましたので紹介させていただきます。当協議会は特定の政党や政治家を支持するものではありませんが、このようにアジアの自由と民族自決の問題に関心を持ってくださる政治家がおられることは大変ありがたいことです。

 「チベット決起60周年記念講演会が開催されるにあたり、活動に帆尽力されておられます皆様に心から敬意と感謝を申し上げます。
 民族自決と、平和で安心して暮らすことを目指すことの、どこに問題があるというのでしょう。遠いよその国の私たちとは関係ない話ではありません。今現在も続いている大変な人権問題です。見て見ぬふりや、知らなかったでは済まされることではありません。私たち自身が、虐げられている人々と同じ目線に立って、弱いものいじめは卑怯だと正論を訴え続けること、関心を持ち続けることこそが、何よりも大切なことだと思います。」
 「一日も早く、本来あるべき穏やかなチベット再興が実現されますことを心より念じ、心ある皆様のなお一層のご活躍をお祈り申し上げます。   衆議院議員 杉田水脈」

 まず最初に、協議会会長ペマ・ギャルポが「兄・ロディ・ギャリの闘い」と題し講演を行いました。


 ペマ会長は、自分たちのように、チベットに生まれ、そして少年時代に中国の侵略を受けて亡命した世代も、もう60歳から70歳を迎えるころになった、これからの運動は、次の世代に引き継いでいかなければいけないと述べ、今日続いて講演するチュイデンブン協議会理事のような、若い世代に対する期待をまず述べました。
 その上で、チュイデンブン氏の講演のテーマは「チベットの主権をチベット人に返せ」だが、私たちチベットが主権を失ったのは、実は1951年、中国との間に結ばれた17条条約によるものだったと指摘しました。北京に招かれたチベット代表団は、このような条約に調印する権限は与えられていないし、その為の印鑑も持ってきてはいないと抗議したのですが、仮にこの条約にサインしなければ、さらに大量の中国軍がチベットに送り込まれると脅され、また、中国側はすでに偽の印鑑まで用意していて、チベットはいわゆる「一国二制度」に当たる17箇条条約を認めざるを得なかったのでした。そしてこの17箇条条約こそが、香港や、今台湾に中国が押し付けようとしている制度であり、それがどのような悲劇をもたらすかはチベットの現代史を見れば明らかだとペマ会長は強調しました。
 しかし、1959年3月、ダライラマ法王がインドに亡命して後、この条約は無効であるという宣言がなされました。この後のチベットは、ペマ会長によれば、「占領下の国家」となします。
 そして、ペマ会長と、兄、ロディ・ギャリが家族と共にインドに亡命した1959年から、72年ごろまでは、チベットではまだ、インドのムスタンを拠点にゲリラ活動が行われていました。兄は元々お坊さんで、ペマ会長は、領主の跡継ぎとして育てられていましたが、インドで、ペマ会長は難民学校に、兄は、イギリス人のスポンサーを得て別の学校に進みましたが、兄は16歳で学業を中止することになりました。
 当時、チベット難民社会では、多少英語ができれば重宝され通訳や広報活動などにつくことになっていましたが、兄、ロディ・ギャリは、実はその当時から、チベットゲリラとアメリカの教官たちの通訳の仕事についていました。この秘密の仕事を、兄は両親にも、ペマ会長にも最後まで語ることはありませんでしたが、兄の死後、ヴォイス・オブ・アメリカの報道や、アメリカの国会での証言などで明らかになったことをペマ会長は報告しました。
 そして同時期、10代で兄ロディ・ギャリは、チベット語の新聞や、チベタンレヴューといった雑誌などを発行し、また1970年代以後、米中接近の中でゲリラ活動が不可能になってからは、テンジン・テトン等の活動家と共に「チベット青年会議」を結成し、チベット国内の闘いと連携を取ったり、また、バングラデシュ独立運動を支援したりなどを行ったこと、70年代までの兄の人生は、まさに過激で闘争的な活動家だったと述べました。
 その後、チベットの運動が中国との対話路線に代わり、ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受賞する過程で、MRA(道徳再武装運動)にもロディ・ギャリはダライ・ラマ法王の代理として参加、「対話を通じて国際機関の間で様々な問題を解決する」ことを目指し、中国民主運動家と対話したり、日本の労働運動とも接するようになった、さらにはインドでのチベット議連が結成されたのちは、その事務局や、チベット亡命政府の外務大臣などを歴任したことをペマ会長は指摘しました。
 そして、文化大革命が終わった鄧小平時代、鄧小平はチベット問題の解決を目指して亡命政府と接触を試みるようになったが、これはおそらく、ソ連がアフガニスタン侵攻以後、対立が深まる中ソ関係の中、チベットに接近を図ったことも作用したのではないかとペマ会長は分析しました。そして、ロディ・ギャリは様々な困難に立ち向かいつつ、チベットと中国との対話に努めたこと、少なくともその間、中国側に譲歩することは全くなかったことを述べました。そして、それまでは不可能だった、国外のチベット人が祖国チベットを調査団として訪問することができるようになり、中国政府は、まるで国外のチベット人は誰からも見捨てられ餓死しかかっているかのような宣伝をしていたけれど、それが嘘であることははっきり分かったと述べました。そして、ロディ・ギャリは、ICT(インターナショナル・チベット・キャンペーン)を通じて、チベット問題の国際化に一層努力してきたことを指摘しました。
 ただ、中国との対話には、得たことと失ったことがあること、そして得たことは、ダライラマ法王のノーベル平和賞に象徴されるように、確かにチベット問題が国際的に認知されたことだけれど、失った面もある、それは、対話を重視するあまり、チベット独立というテーマが少しぼやけ、運動に求心力が失われたことをあげました。
 ペマ会長は兄の経験した対中国交渉の難しさとして、外交の秘密というのは、たとえ味方にも明かせないことがたくさんあるが、中国側はそれを簡単に公にしてしまう点を挙げました。例えば、北京オリンピックの前、中国と亡命政府との交渉が2007年ジュネーブで行われたが、その時の写真などを、中国が、まるでチベットと良心的に対話している証拠として出してしまうようなことがある。また、チベット側でも、まだ秘密にしておくべき内容を公開してしまうような動きもあり、兄は、外交上の機密を保持することに大変苦労したと思うと述べました。
 そして、ロディ・ギャリは、亡くなる3年ほど前から、自分の活動を振り返る本を執筆しており、これはほぼ書き終えることができたので、後は編集したのちに、年末には発行できることと思う、兄はラマ(僧侶)として生まれ、過激な活動家として青春を送り、そして最後は官僚として対中国の交渉を務めた、その人生はチベットの現代史を表す一つの大切な記録になるだろうと述べました。
 今回、ペマ会長は、今回兄が亡くなる前に、短い間ではあったけれど話すこともできたこと、そして亡くなった後、たくさんの人からメッセージや死を悼む声が寄せられた、これはまさに兄が一生を通じて作り上げた広いネットワークを表すものであり、これはチベットのためにこれからも多くのことをもたらしてくれるだろうと述べました。そして、今回の渡米で多くのアメリカの有力者と会うことができたことによって、アメリカが、単にトランプ個人の意思ではなく、共和党、民主党を問わずに、中国の正体に気づき、その覇権主義に警戒していることを実感したこと、今こそ、チベットをはじめ、様々な問題について、中国に厳しいハードルを突き付けて迫るべき時だと講演を結びました。


第二部 「チベットの主権をチベット人に返せ」チュイデンブン講演報告
 (チュイデンブン氏の講演内容をそのまま掲載します)
 皆さん、こんばんは。
 今日は、我がチベットが中国に不法占領されてちょうど60年となります。この60年の間に、我々チベット人は、中国による植民地的な支配の下で計り知れないものを失いました。1951年に、中国は「チベットから針一本も、糸一本も取らない」と約束しながら、大量の軍人を投入して侵略、虐殺、略奪など限りの無い暴力を尽くしました。中国の毛沢東の死と共に、いわゆる「文化大革命」も終結した1976年までの20年余りの中で約120万人の我がチベット人同胞の命が中国によって奪われ、6000ヶ所以上の仏教施設が破壊され、その中の金、銀などおカネになるものがすべて略奪されました。そして、民族生存の生命でもある我がチベットの言語・文字・文化も中国によって否定され、凄まじい破壊を受けました。
 中国は、それを「解放」と呼んでいますが、実は、解放ではなく、侵略行為・破壊行為です。
 そうした文化大革命時代のような侵略的・破壊的な手法は、今日の我がチベットやウイグル、南モンゴルにおいても強行し続けています。これには国際社会が人類普遍的価値観に基づく責任を持って積極的に関わっていかないと、中国はやがてアメリカを超えた社会帝国主義となって、人類に計り知れない災害をもたらすだろう。
 今週の6日頃から中国では日本の国会に当たる全国人民代表大会が開かれています。その中で現在のチベット自治区の代表たちは、記者の質問に対して、「ダライ・ラマは亡命以降、チベット人に一つも良いことをして来なかった」と言っています。それでは、「チベットから針一本も、糸一本も取らない」と約束しながら、チベットを侵略して120万人のチベット人を殺し、6000以上の仏教寺院を破壊し、その中の金、銀などおカネになるものを奪い、現在もチベット人の基本的権利を侵害しているのは誰でしょうか。それは、共産主義国家の中国ではないでしょうか。
 またその代表たちは、「共産党が幸せな生活をもたらしたことにチベット人が感謝している」とも言っています。それでは、2009年からいままで156名のチベット人がチベットの自由やチベットの最高指導者ダライ・ラマ法王の帰国を求めて中国に焼身抗議したのは、彼らが中国の支配の下で幸せすぎて焼身を選んだのでしょうか。
 またその代表らは、「ダライ・ラマを熱愛しているチベット人がいることは聞いたこともない」とも言っています。それでは、中国はチベット人がダライ・ラマ法王の写真を持つことさえ許していないのはなぜでしょうか。
 またその代表たちは、「チベットは最も平和で安定している」とも言っています。それでは、今日の我がチベット人の町には中国の監視カメラが増設され、機関銃を持つ軍人や警察が溢れているのはなぜでしょうか。
 事実を歪曲し、自分の国民と世界を騙し続けているのは、いまの共産主義国家の中国です。中国には「恥」を知る文化がないため、中国の指導者たちは国民や国際社会の反応を気にすることなく、平気で嘘を付くのです。
 我々チベット人のダライ・ラマ法王に対する信仰心は、数の力で砕けることもできません。我々チベット人の心は、おカネで買えることもできません。我がチベットの真実は、軍事の力で砕けることもできません。
 私は2007年にある日本人から300万円の支援を受けて、地元の小学校に二階の建物を作り、その一部は生徒が使う教室として、一部は先生たちが使う教務室として贈呈しました。しかし、昨年の9月頃、「古くなったため、新しい建物を作る」と言う理由で地元の政府によって壊されました。
 同じことは、現在の四川省のチベット人居住地においても起こっていました。昨年11月、私はチベット・カム出身で香港在住のチベット人と日本で会いました。彼も2001年頃から資金を提供して、2010年頃までに四川省のチベット人居住地の貧困地域に10数か所の小学校や親のない孤児のための施設を作っていました。それは、当時、現地の政府からも高い評価を受けて政府機関の新聞にも載っていたほどでした。しかし、2016年に彼の支援で造った教育施設は、「新しい施設を作る」と言う理由で、現地の政府によって壊されたそうです。
 「建物が古くなった」と言うことは本当の理由ではないでしょう。先週聞いた情報ですが、地元でもすでにチベット人が海外からの支援を受けてはならないようにされているそうです。
 なぜ、チベット人は海外からの支援を受けてはいけないのでしょうか。チベット人が海外から支援を受けてはいけないなら、中国人が日本から3兆円以上のODA援助を受けて造っている道路、病院、空港、学校なども壊すべきではないでしょうか。
 昨年、私は日本の有名な政治学者・矢部貞二の『政治学入門』をチベット語に翻訳しました。目的は、チベット人の政治家や官僚を初めとする一般チベット人は、この本から正しい政治を行うための良いアドバイスを受け取れるのではないか。そして、彼らはこの本から政治や国家のあるべき本来の姿を知ることができるのではないかと言う思いで翻訳しました。しかし、残念ながらチベットでは出版してくれませんでした。
 まず、チベットに関する文献の出版について絶対的な権威を持つと言われている中国チベット学出版社の関係者に連絡しました。しかし、この出版社からは直ぐに「チベット語による政治や歴史の本が出版できないようになっている。そのために会議も開かれた。」と断れました。そして、青海民族出版社と四川民族出版社の関係者にも連絡しましたが、この二つの出版社からも「政治制度が違うため、出版難しい」と断れました。
 なぜ、チベットではチベット語による政治と歴史の本は出版してはいけないのでしょうか。これは、我がチベットの言語や文字に対するジェノサイドではないでしょうか。日本では、中国人が書いた政治に関する本の輸入を制限していないのに、中国では、日本人が書いた政治に関する本の輸入を制限するのは公平ではありません。日本と中国の政治制度はそれぞれ違うかもしれませんが、矢部貞二の『政治学入門』は、中国の政治家や官僚たちにとってもより良い政治を運営するためのカギとなり得ます。
 いまの習近平政権の時から中国の我がチベットに対する弾圧は更に強化しています。私の出身地であるチベット・アムド州においても多くの寺院で行っていたチベット語の学習活動が禁止されています。町で一般チベット人が立ち上げたチベット語教室も閉鎖させられています。
 中国は、そうした他の民族に対する破壊活動を、遅れた民族の「文明化への営み」として考えているようですが、逆にそうした破壊活動をする中国人こそ野蛮で遅れた民族ではないでしょうか。
 先月、カナダのトロント大学でチィメラモと言うチベット人女性が大学の学生会長に選ばれました。しかし、それに対してその大学の中国人留学生たちが抗議し、一部の中国人留学生はネットで「お前を殺す銃の玉は中国が製造している」とまで書いて脅かしています。
 我々チベット人は、そうした野蛮な民族の支配を受けたくありません。我がチベットの主権を我々チベット人に返してほしい。
 また、昨年11月、私の手元にチベットから1ページくらいの文章が届きました。その中にオーケルツォと言うチベット人女性が中国人と結婚し、結果的には苦しい生活をした後、家を出て自由で満足できる生活をしていることを書いてあります。

 (手紙の文面)
 私の名前はオーケルツォと申します。実家はタッケル県から7㎞先の小さな遊牧の村にあります。学校に通ったことがありません。私の村では、結婚を初めとする子供の未来のことはすべて親が決めています。私は18歳の時にお父さんの知り合いの中国人と結婚させられました。
 この中国人は、金属の道具を作る職人として、タッケル県の町で小さな店を経営していました。この人と結婚して27歳まで彼の仕事を手伝いながら普通の夫婦としてきました。しかし、27歳の時に女の子が生まれましたので、私は専ら子育てと家事に専念してきました。
 私は、稼ぎに行ったこともないので、手元に小遣いのお金さえ持ったことがありません。娘が1歳になった時から旦那の態度が徐々に酷くなってきました。タッケル県の遊牧民は金持ちですので、旦那の商売が繁盛し、約10年間で旦那が金持ちになり、マンションで新しい家も買いました。
 しかし、新しい家に引っ越してから、私とは全く相談もせずに私の名前も娘の名前も自分の名字に基づいて中国名に変えました。そして、娘をチベット人が通う小学校に行かせることも許されず、中国人が通う小学校に行かせました。家で娘とチベット語で会話することも、チベット語の名前で娘を呼ぶことも許してくれませんでした。
 チベット衣装を着たり、お寺に参拝に行ったり、チベット人の友人と話をしたりすると、嫌われ、厳しく叱られるようになってきました。娘の成績が悪くなった場合、「チベット人の子だから、頭が悪いんだ」と言われます。娘の服が汚れていたり、鼻水が出ていたりすると、「チベット人の子だから、汚いんだ」と言われます。娘の成績が良くなったり、良いことをしたりすると、「中国人の子だから、賢いんだ」と言われるようになりました。ある日、テレビでアフリカのある民族に関する番組が放送していました。その時、旦那は、娘に対して「ほら、見なさい。チベット人もこの民族と同じ遅れた民族だ。でも、お前は中国人だ」と言いました。
 そのように教育してきたため、いま娘は自分のお母さんはチベット人であることを恥ずかしく思い、ママ嫌いとなっています。
 うちで親戚の人が来ても嫌われました。家で家事をする時、食器が落ちて割れたり、家具にぶつかったりすると、「畜生と同じ民族だから、しようがないんだ」と言われます。パンチされたり、蹴られたりされたことも数え切れません。
 旦那は二面性の顔を持っており、喋りも得意ですので、私の苦しい状況を親や親戚の人に話しても、「旦那を大切にしなさい」と聞いてくれないし、「離婚したい」と言うと、「バカだ」と厳しく叱られます。旦那は、親や親戚、知り合いのチベット人たちに対しても、その二面性の顔を上手に演じているため、周りの人々からも「優しくて金持ちの旦那と結婚できて羨ましい」と言われるほどです。
 私は36歳になったある日、親戚のお坊さんからダライ・ラマ法王の写真を一枚もらいました。私は、それを家の仏壇の中に置きましたが、旦那がそれを見たとたん、激怒し、「これは、我々の敵だ」と写真を下して破りました。この時、私は心の中で、「この人と暮らすと、これからも自分の人生が侮辱され続けていくだろう。私個人はいくら侮辱されてもかまいませんが、私の民族や人格の高い法王まで侮辱されるのはどうしても許せない。もう自由になりたい」と決意しました。
 私は、33歳の時から密かにチベット語を勉強しました。チベット語を勉強する目的は、いままで中国人の旦那のもとで体験してきた苦しみを自分の死と共に消えないようにするためです。
 今年、私は38歳です。娘は11歳となっています。36歳の時から家を出てチベット人の多い町で仕事を始めました。いま仕事をして2年となりますが、まるで地獄から解放された感じで、自由に使うお金もあり、生活に何の不自由もありません。
 私は、この中国人の旦那のもとで体験してきた苦しみは、一生掛けて話しても足りません。私は、この中国人の旦那のもとで体験してきた苦しみについて、一生かけて泣いても足りません。これを自分の死と共に消えないようにするために、いまチベット語の文法も勉強し、立派な文章を自分のこの手で書けるように頑張っています。
 2018年11月5日(引用終わり)

 以上のように、このオーケルツォが直面している状況は、この60年間に渡って受けてきた我がチベットの現状でもあります。このオーケルツォが抱いて来た気持ちは、我々すべてのチベット人が抱いている気持ちでもあります。その中国人の旦那が持っている二面性の顔は、いまの共産主義国家中国の顔でもあります。我々チベット人は、オーケルツォと同じように中国による植民地的な支配から自立する決意をしなければならないと思います。そして、それは、いままでのように「チベットに自由を」、「チベットに人権を」、「チベットに平和を」のスローガンだけではなく、「チベットの主権をチベット人に返せ」のスローガンで一層団結し、より具体的な政策を立ち上げて前進していくべきです。
 かつて、中国の指導者鄧小平は、1974年に国連で演説した時、このような発言をしています。「ある日、もし中国は超大国となって、世界覇権を握り、他者を虐めたり、侵略したり、剥奪したりしたならば、世界の人民は中国に社会帝国主義の帽子をかぶって、彼の覇権を暴露し、彼に抗議し、中国人と共に彼を倒すべきだ」。
 いま、中国は超大国となりつつあります。そして、一対一路と言う経済戦略で腐敗した政治を、周辺民族の壁を越えて世界中に輸出し始めているいま、日本政府も正々堂々と自由、民主主義など人類普遍的価値観を擁護し、中国の民主化とチベット人、ウイグル人、南モンゴル人の民族自決権を力強く促進し、支えていくべきだと思います。
 ご清聴、有難う御座いました。
 2019年3月10日
 チュイデンブン


 第一部・第二部の講演終了後、様々な質疑応答がなされ、最後に当会の西村副会長より、閉会の挨拶が行われました。西村副会長は、現在、ネットメディアにも様々な言論弾圧が起きていること、また、チュイデンブン氏が挙げた、カナダの大学自治会でチベット人が会長になった時に、カナダに住む中国人から、聞くに堪えないヘイトスピーチや、脅迫文が送られた現実をあげ、このままでは中華ファシズム・全体主義が世界を覆ってしまう、それに闘うのが自由と民主主義、そして民族の伝統を守る側の責務だと述べ、講演会は閉会しました。(文責 三浦小太郎)
 

.