【講演録・動画あり】プロヴィール・ビカシュ・シャーカー「タゴールと日本の交流の100年」

 2019年5月18日に東京で行われました、協議会理事プロヴィール・ビカシュ・シャーカー氏の「タゴールと日本の交流の100年」の講演録です。


 日本ではインドの詩人ロビンドロナト タクールのことを、省略してあるいは 名字でタゴールと言います。ただし、ただ詩人というだけでは、タゴールという人物の偉大さは表せないと私は思います。
 
 一般的にインドでも、バングラデシュでも、あるいは世界でも、確かにタゴールは詩人として、多くの人々に知られています。しかし、実はタゴールはそれ以上の多才な人物でした。例えば、音楽、小説、児童文学、音楽劇(つまりミュージカルドラマ)、思想研究、教育、精神、政治、哲学、自然、宗教、人権、東洋思想、農民経済、古代インド世界史、国造り、芸術、国際交流、大学建立など様々な分野の知識を持ち、それぞれの分野に深くて幅広い重要な貢献を果たしていました。
 
 一言で言えば、80歳の人生において、あれほどの智識を持った人物は、世界でも非常に珍しいのではないかと驚かされます!まさに世界の智的な財産であります。ですから、我々ベンガル人はもちろん、全インド大陸ではタゴールのことを、グルデボ、つまり教育面で神様の存在、それと、コビグル、つまり詩人の中で一番、それとも一つ、ビッショコビ、つまり世界の詩人として呼びます。最高の尊重する呼称です。
 
 タゴールは1861年当時のイギリス支配の下で、インドの最も豊かで、権利のあるベンガル地方の家庭で生まれ、インドとイギリスの教育を受けて育ちました。イギリスの首都、ロンドンの学校でもしばらく勉強しました。こうして、若くして西洋と東洋の考え方の違いと、双方の思想について理解できるようになりました。そして、成長するにつれて彼の精神と教育の考えは発展して行きます。その影響が、タゴールの生涯と様々な活動にはよく表れていることは、彼の生涯と業績をたどればすぐにわかります。
 
 タゴールは、1913年、アジア人として初めて、イギリスの植民地インドのベンガル人として、ノーベル文学賞を受賞しました。当時、西欧の白人文明が最も優秀なものとされていた時代に、アジア人がこの賞を受賞したことは大変珍しく特殊なことでした。受賞対象となったのは、タゴールがベンガル語で書いた詩集「ギータンジョリ」です。ギータンジャリとも呼びます。
 
 この詩集に収められた詩には、ずべて、タゴールが作曲した音楽がつけられていました。当時も今も、これらの歌は大人気を集めています。タゴールはその時52歳です。ノーベル賞を受賞してすぐに、世界、そして日本で大きな反響が巻き起こりました。知識人だけではなく一般の人々の中にもタゴールへの関心が広がり、詩人に会いたいという声が高まります。日本政府もそれに応じて、担当をインドに派遣しました。
 
 残念ながらこの時は、詩人は日本政府の招請にもかかわらず、中々来日出来ませんでした。もちろん、その裏には政治的な事情がありましたが、まず、タゴールの詩が英語版を通じて日本語に翻訳され、他の著作も次々と紹介されました。なぜこれほどの反響があったかと言えば、当時、もしアジアからノーベル賞の受賞者が出るとすれば、それは当時のアジアでただ一つの先進国である、日本の文学者化科学者が受賞すると思われていたのですが、それがほとんど知られていない、イギリス植民地の詩人が選ばれたことへの驚きが大きかったからでしょう。
 
 その年、日本でもとても悲しい出来事がありました。タゴールの友人である岡倉覚三、別名で天心が世の中を去って行きました。たった50歳でした。その時、タゴールと岡倉の出会いとこれまでの交流の意味について理解していた日本人たちは、特に画家の横山大観、柔道家佐野甚之助、仏教学者、僧侶川口慧海、仏教学者、画家勝田蕉琴、東大教授、武蔵野大学創立者高楠順次郎、等の方々は、懐かしく二人の関係を思い出したに違いありません。彼らは岡倉の弟子や信奉者であり、インドでみなタゴールと会見している、日印交流の先駆者たちです。
 
 岡倉天心は、日本の生んだ偉大な天才思想家であり、また芸術上の革命家、そして日本文化遺産の修復者でもありました。1902年、岡倉はインド訪問の際、タゴールとその家族と出会っています。岡倉はこの時期、約10月間にわたり、首都コルカタと他の仏教遺産を巡りました。この滞在中、岡倉はタゴールを含む、インドの知識人や愛国心に燃える若い独立運動家達に深い影響を与えました。そのため、イギリス帝国は岡倉を危険人物と決めつけて秘密警察による監視をつけています。これが、1914年から1915年までタゴールが日本に訪れることは出来なかった理由でした。
 
 先ほど、名前を挙げた日本人たちは、1902年から1913年までに、インドに渡り、ベンガル文化のルネサンスを起こした現地の智識人達と教育、文化、芸術において交流を深めました。例えば、タゴールの親族であり画家のオボニンドロナト タゴール、画家ゴゴネンドロナト タゴール、画家ノンド ラル ボシュ、画家オシト クマル ハルダル;ヒンドゥー僧スワーミー・ヴィヴェーカーナンダなどです。この日本人たちのうち何人かは、タゴールが設立したこども学校があるシャンティニケタンにも行きました。タゴール日本に来日する前に、岡倉天心の影響から、日本の独特な教育や文化に関心を持ち、日本からシャンティニケタンに柔道、生花、茶道、日本画、木造技術、庭園などの先生や技術者を招請しようとし、もちろん、岡倉天心の助力によって実現しています。
 
 岡倉は、帰国してから間もなく、東京大学でインド訪問の結果報告会を開いてインドおよびタゴールとの出会いのことを話します。その集まりに、同大学の学長含む70人の、様々な分野の教授や知識人が出席しています。このように、日本人でインドや詩人タゴールのこと初めて紹介した人物とは、岡倉天心ではないかと思います。
 
 岡倉が生きている間に生まれた、いくつもの素晴らしい出来事が、日本とベンガルの交流に深い影響を刻みました。例えば、横山大観は、聖なるゴンガ河、つまり聖山ヒマラヤ山脈から流れるガンゼス河添えの人々の日常生活や、ヒンズー教文化との生々しい体験から、たくさんの素晴らしい絵を描き上げ注目を集めました。それが日本の大切な文化財になっています。
 
 次は、ノーベル賞受賞した世界経済学者アマルてィャ センの母上が柔道家佐野甚野助の生徒でした。
 
 三番めは、岡倉が1912年に二回目にインド訪問する際コルカタでベンガルの上流詩人、作家、社会運動家プリヤンバダ・デーヴ女性に出会い、お互い恋に結ばれます。プリヤンバダ女史はタゴールの親戚に当たります。
 
 このように文化交流が進んで行き、1915年に政治的な関係に展開します。長く待ち続けたタゴールに日印タゴール協会の会長であり、実業家の渋沢栄一が招待状を送ります。この年の5月に来日し、智識人の友人達に心温かく迎えられます。日本のマスコミがその情報を大きく報じました。
 
 なぜ、この交流が政治に展開したかというと、その背景は岡倉のインド訪問に潜んでると私は思います。1893年にアマリカのシカゴで万国宗教会議における最大の人物であるインドのヒンドゥー教の出家者、ヨーガ指導者、社会活動家。ラーマクリシュナの弟子・後継者であり、ラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションの創設者である スワミ・ヴィヴェーカーナンダの参加と演説のことを岡倉はよく知っていました。そして日本の京都にて、同じような宗教会議を開こうと考えました。そこにスワミ ヴィヴェーカーナンダを招待するためにインドへ行くことにします。その時ヴィヴェーカーナンダ のアメリカ人である弟子ジョセフィン マックりオド という女性が彼の日本美術院で東洋の芸術を学んでいました。おそらく、自由と冒険の強い精神とスコットランドの祖先を持つジョセフィンに打たれて一緒にインドに行くことに決めたと思います。1902年の一月にインドに入り、ベルルモトのラーマクリシュナ・ミッションに行きます。スワミ ヴィヴェーカーナンダに暖かく迎えられ、「長い間見失った兄弟が来たみたいだ」と大歓迎してくれた。それを聞いてジョセフィン女史はほっとしました。だが、残念ながら、スワミ ヴィヴェーカーナンダを招待することは、健康状態が良くないため断られました。
 
 そのまま10か月間タゴールのおい(甥)シュレンドロナト タゴールの家で過ごしたりや仏教の聖地オジョンタ、イロラ、ブッダゴヤなどを見に行ったりしました。時々青年の集まり参加して、イギリスから独立するため勇気づける言葉で話したり、また、ある政治的な秘密結社を設立して革命を起こすように扇動(せんどう)したことが分かります。その年に秘密結社「ォヌシロン ショミティ」が作られています。その会の活動は、頭山満の玄洋社を思わせるものです。岡倉は翁頭山満や玄洋社のことを知らないはずはないと思います。
 
 インド滞在中、スワミヴィヴェーカーナンダ紹介で、彼の弟子シスターニヴェディタ女史、ロビンドロナト タゴール、画家ノンド ラル ボシュ、オレ ブル夫婦などと知り合いました。元々アイリッシュ血を引ていたインドの独立に対する政治的な影響力を持つニヴェディタ女史と、以前から交流のあったジョセフィン女史は、自由と冒険の強い精神を持っていました。岡倉の最初の本「東洋の理想」の解説を書いたのがそのシスターニヴェディタ女史です。
 
 ロビンドロナト タゴールと会見した時、岡倉とタゴールはお互い深い感銘を受けました。岡倉の「アジアは一つなり」の言葉に賛成し、共同で東洋の理想、文化、伝統を守るための親交を結びました。二人はお互いの才能を求めました。インドの独立運動にタゴールやタゴール家族が共感で深く支持してることを岡倉はよく知っていました。
 
 岡倉が亡くなってからは2年後、1916年のタゴールの日本訪問のことを知り、強烈な革命家、ラシュビハリ ボシュが一つ秘密計画を立て、タゴールの親戚ピ エンタゴールつまりプリヨナと タゴールという別名前で日本に亡命します。1915年のことです。タゴールはその計画を知っていたかどうかは分からないが、日本に亡命したことは知っていました。最初の日本滞在中には、ボシュと会うことはありませんでしたが、その後1924年と1929年に来日した時会っています。
 
 タゴールの最初の来日時は政治的な論争が起きています。東大で行われた講演で、日本のナショナリズムや政府の軍事政策が、あまりにも西欧的であるとしてタゴールは厳しく批判しました。これによって一部の学者、知識人により大変な反発が広がって行きます。そうするとタゴールがこれからの講演の内容を変え、日本人の精神と自然の美しさについて慶應義塾で講演で大変評価し、少しでも興奮状態を冷めることが出来ました。
 
 確かに、明治時代から昭和にかけて日本だけではなく、20世紀において全世界の各地で帝国主義と反帝国主義が対立し、ナショナリズムと過激派の運動や革命が巻き起こっていた時代でした。タゴールの母国インドもそうでした。その頃事実上世界状勢により日本もそうするしかなかった。世界の帝国主義と同じ方向に進み、軍事政策を取って国と国民と領土を守るのが当り前でした。まずは、資源のない日本にはほかの選択肢はなく、、二番目には、隣にあった強烈な帝国ロシヤとシナ国が存在し、無防備では朝鮮のように属国にされる恐れが高まっていたから、日本も軍事的に強くならければならなかった。これも現実的な事実だったには間違いない。明治維新を起こす理由もそうでした。タゴールはその状態を分かってる内なぜこんな批判したのかは全く謎であります。むしろ、日露戦争での日本のロシアへの勝利に対し、大変喜びに満ちた評価を捧げたタゴールのこの批判は理解しにくいと思います。また、1907年に東ベンガルの南町チッタゴンで行ったある集まりでは、タゴールは白人に勝利した日本の貴重な勝利を例に出し、インドの若者に、眠りからおきるように刺激を与えることもしました!
 
 まあ、そのようなことがあったにせよ、タゴールと日本の交流は全く変わらなかったし、益々深くなって行きます。その最初の一回目の旅で横浜の実業家、原富太郎にお世話になり、役3か月も滞在しました。その時日本のいろいろところに行き、講演し、毎日知識人と会っていました。例えば、日本女子大学の創設者成瀬仁蔵先生に誘われて長野県軽井沢にある分校で10日間滞在し、講演しながら生徒達とにぎやかに過ごしていました。その後長野から茨城県五浦へ旅して同じく一週間以上岡倉天心の家族とともに過ごしました。岡倉が立てた六角堂にも行き、亡くなった友人のことを回顧しています。
 
 今回の旅でいくつか出来事がありました。例えば、招待者渋沢栄一の別荘で歓迎会に出席して役40人以上の名人と出会い、いろいろと意見交換しました。渋沢がタゴールの森の学校の発展のため2、000円を寄付として貢献しました。
 
 タゴールが始めて来日するに当たって、沢山の優れた知識人、例えば、横山大観、詩人野口米次郎、仏教学者高楠順次郎、仏教僧侶河口慧海、柔道家佐野甚之助、仏教学者木村日記らによっ、上野寛永寺て大歓迎会が開かれます。そこに首相の大隈重信、東大の学長を含む300人優秀な日本人が参加しました。例のないこのような出来事は、当時日本で始めてではないかと思います。
 
 最も意義のある出来事は、一つ、先言ったように、タゴールの日本訪問のきっかけでビハリ ボシュの日本への亡命。
 それと当時の日本女子大学の生徒和田とみ子との出会いです。
 
 最初と1917年に二番目の日本訪問した時ビハリ ボシュとは会えませんでしたが、1924年に三回目の時新宿中村屋で会い、タゴールを翁頭山満と会わせ、玄洋社によって上野精養軒というフランスレストランで大歓迎会を開かれます。その時タゴールがビハリ ボシュを助けながらインドの独立運動にご協力に対して、翁頭山満に感謝を伝えました。ビハリ ボシュが日本へ来ることができたからこそ、その後チャンドラ ボウスをドイツから日本へ呼べることが出来たのです。もちろん、その時は日本側も大変な努力をしましたし、チャンドラ ボウスと東条英機共同のインパル作戦は、歴史的も有名です。この時の日本の協力があったからこそ、インドがイギリス支配から開放して独立を得ることが出来ました。インドはそのことを認めていますし、インド独立はタゴールの一生の悲願でした。
 
 その後1929年五回目の訪問の時、タゴールがビハリ ボシュの紹介で実業家大倉邦彦の目黒にあった家に三週間も泊まり、邦彦と深い関係を築きました。それによって、1961年、タゴールの生誕100周年祭が、日本でも三年半かけて行われました。それを実現するに当たって、当時の優秀な知識人だけではなく、文化、文学、教育、宗教、財界の主要人物がタゴール記念会を発足し、邦彦は会長となって大変な事業を取り行い、例のない様々な式典、セミナー、映画上映、音楽、舞台、タゴールの絵画展示会、ベンガル語講座会、タゴールに関する膨大な資料収集、タゴール研究室、記念出版、記念会会報出版などやりました。
 
 和田とみ子はタゴールの通訳、翻訳を行いつつ、亡くなるまで、タゴールの思想を、深い知識と敬意をもって研究し、日本でタゴールへの認識を広げるため大変な役割を果たしました。結婚してからは、高良とみとなって、日本とアメリカで5回も会い、最後1935年タゴールの晩年に、インドへまで行ってシャンティニケタンで再会しました。その時タゴールはもう一度日本へ行きたいと述べており、日本のこと懐かしく思い出していたことを彼女の自伝に書いてあります。
 
 1941年第二世界大戦の直前タゴールは80歳でなくなりますが、戦争中と戦後しばらくタゴールとの繋がりは全く切れてしまいました。1902年から1957年まで日本とインドあるいは日本人とベンガル人文化交流が、両国で深い印象を与えました。沢山の日本画家、僧侶、教育者、記者、作家、実業家、思想家など知識人がインドへ行き、コルカタやしシャンティニケタンで、タゴールを始め、他のベンガル知識人と交流を深めました。逆に、インドからも多数の学生と有名な画家、教育者、作家、歴史家、革命家が、日本に滞在しながら社会、宗教、歴史、文化、技術など学びました。
 
 戦前には、ベンガルでは日本についての多数の本と多くの記事が、新聞や雑誌に掲載されました。戦争でその情熱が冷めたが、東京軍事裁判で世界を動かしたインドのベンガル人判事ラダ ビノド パールのおかげで、またタゴールの名前が出始めました。タゴールとパール判事があったことがあるのかどうかはわかりませんが、判事はインドの最初の大学コルカタ大学の副学長だったし、その大学の重要なポストはタゴール教授でもあった。裁判中ある機会で平凡社の社長下中弥三郎と出会って兄弟関係となり、いろいろ話の中でタゴルのことも出たと思われます。その後インドと日本の国交を結んだ時点で、シャンティニケタンのタゴール国際大学に、日本の学生や教授達がまた行けるようになります。1955年に当たり、東大のインド学者でタゴール研究家の中村元教授の尽力で交流がまた復活しました。
 
 やがて1961年がタゴールの生誕100周年の情報が日本にも入り、下中弥三郎の働きで1957年に当時の智識人の仲間達が集まります。その内インドの首相ネルーからも依頼の手紙がタゴール時代の友人達の宛に届くと、日本でもタゴール生誕際を実現する運びになりました。まもなく大倉邦彦が現れ、彼の指導で事業が進んで行きます。先ほどその話をさせていただきました。
 
 タゴール生誕際が終わると、今度多数の若い学者、大学の教授、翻訳家、作家がタゴールを知るためにベンガル語を学び運動始まります。それは1965年ごろからのことです。奈良毅、我妻和男、我妻佳子、臼田正幸、大西正幸、鈴木喜久子、西岡直樹、丹羽京子、渡辺一弘などが有名です。彼はベンガル語講座を開き奈良毅先生に学びます。タゴール始め、他の優秀なベンガル文学者や作家の詩や小説を翻訳するのに「コッラニ」という雑誌も出し、本も出版して行きます。
 
 彼らの中で一番優れた研究家は我妻和男です。東大出身で横浜市立大学の教授の彼はベンガル語専門東大の教授渡辺照宏に学んだあと、1967年にインドのベンガル州にあるタゴール国際大学客員教授になり、三年半日本語と日本の文化を教えながらベンガル語と文化の専門的な知識を持ってタゴール文学を深く愛し全体を読み、研究し、そして日本語に翻訳して行きます。それからずっと2011年に亡くなるまでの40年間余り、タゴールのことを日本で幅広く伝えたり、筑波大や麗澤大の授業でも教え、さまざまな活動をされてきました。その活動をしながらインドとのほとんどの優秀な知識人と深い関係を持ち、彼らを日本で呼んで文学セミナーなどもやりました。1972年に日印タゴール協会を発足し、中村元、高良とみ、通称平等など、元タゴールの友人とともにいくつかの計画に取り込みます。そして実現したのが、タゴール著作集12巻出版、シャンティニケタンで「日本館」を設立、日本とインドの教育、文化交流をもっと強くするなど。長い時間かけてこの計画を完全に実現させました。
 
 晩年になってから、2007年にインド西ベンガル州の首都コルカタで「印日文化センターロビンドロ岡倉舘」を西ベンガル政府と共同で建立し、長年の苦労と貢献が認められ、インドの西ベンガル政府かからタゴール賞、名誉勲章、タゴール大学から名誉タイトルデシコットム、つまり世界で最高のもの、日本政府から国家勲章など優勝しました。
 
 このように百年以上タゴールについて研究が続いています。タゴール大学の音楽部で習ったタゴールソングも歌い続けてる歌手もいます。タゴール舞踊も引き継いでいる団体もいる。まだまだタゴールへの関心と支持はなくならないので、それを通じた日本とインドとバングラデシュの交流が展開して行くでしょう。なぜならば、タゴールの存在は、アジアの文化、文学、音楽でなく政治経済にも否定出来ない影響がある。ですから、2011年に東京で開かれた初めての印日グローバルパートナシプサミットで、岡倉ータゴールの出会いを振り返ることが必要でした。その依頼を受けて、日本で撮影されたタゴールの30枚以上の貴重な写真の展示させていただきました。
 
 タゴールを中心した印日交流をもっと知り、若い人々の間で関心が広がるよう、日本でも、今後タゴール記念館が作られるべきですし、東京で由縁のある公園、例えば上野公園や飛鳥山公園で記念碑が立てられるべきだと私は思います。



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