アジア自由民主連帯協議会・逢魔名画座共催講演会(下川正晴氏)&映画上映会報告

 アジア自由民主連帯協議会では、9月7日、日本統治下の朝鮮半島で公開された映画「授業料」の上映会、ならびに、この時代における朝鮮半島での映画人の人生を総合的に記した本「日本統治下の朝鮮シネマ群像-戦争と近代の同時代史」(弦書房)著者、下川正晴氏の講演会を、貴重な過去の名画を発掘上映している団体「逢魔名画座」と共催にて、東京御茶ノ水の会議室にて開催しました。

 この映画の背景には、1938年、朝鮮教育令第三次改正が行われ、それによって、皇民化のための国語教育の強化が目指されたことがあります。そのため、朝鮮総督府がいわゆる作文教育、「綴教育」「綴募集(ある種の作文コンクール)」を推奨しました。そして受賞したある朝鮮人小学生の作文が、この映画の原作となったのでした。

 今回はほとんどが映画上映となるため、動画の公開などは控えさせていただきます。この映画のストーリーをまず紹介します。

 朝鮮半島の田園地帯にある村が映画の舞台。小学生、栄達は家が貧しく、両親も遠方で行商をしていて、中々お金が送られてこないので、祖母と二人で貧しい生活をしています。そのため、学校で授業料を治める日には、何カ月も滞納していることが恥ずかしくてなりません。

 そして、祖母も無理がたたって倒れてしまい、いよいよ家にはお金が無くなり、家主の辛い催促を受けます。同級生の女性が何とかしてあげようと、自分の弟の勉強を見てもらっていくらかのコメを分け与えようとします。とうとう、栄達は学校にも行かなくなります。

 心配した学校の先生(日本人)が家を訪ねてきて、栄達の留守に、祖母に授業料としてお金を渡していきます。祖母は深く感謝し、栄達も感動しますが、そのすぐ後たずねてきた家主に、たまっている家賃のかわりにそのお金を渡さざるを得ません。

 祖母は、最後の手段として、6里も離れた親戚の家に、授業料をもらいに行くしかない、と言います。しかし、祖母は体が動かず、小学生の栄達が、朝早く起きて歩いていきます。この少年は歩きながら、自分を励ますかのように「愛馬進軍歌」を歌うのですが、この時の少年の表情、泣き出しそうな思いをこらえながら自分を励まして歌うシーンは、この作品の白眉となっています。幼い声で歌う軍歌が、いっそう、少年の寂しさを際立たせているのです。約24キロを歩きとおし、ついに親戚の家に着いた栄達は、事情を話してお金とコメを持ち帰ることができました。

 早速お金を持って学校に行くと、先生は喜んで栄達を迎え、これからは、授業料が家庭の事情で払えない生徒たちのために、先生も給与の一部を、そして生徒たちも寄付を集める「友情箱」が置かれることになった、貧乏は決して恥ずかしいことではない、これからは心配しないで学校に通いなさいと告げます。そのあと、やっと両親から手紙とお金が届き、暫く母親が商売先で病気をしていたので連絡も出来なかったけれど、これから故郷に帰る、といううれしい知らせが届き、ラストシーンではその両親を、先生も、祖母も、栄達も迎える場面で終わります。

 この映画について、下川氏はいくつかのポイントを説明し、まず、これはある種のロード・ムービーであり、少年の成長物語としてとてもよくできていることを述べました。誰しも子供のころ、一人で道を歩いてどこかに向かい、ちょっとした街の風景や木や森に触れたり、何か大変な冒険をしたような思いがしたりすることはあるけれど、この映画は、厳しい環境の中で生きる少年を描きながら、決してべたついたメロドラマにならず、どこかさわやかな印象を残すものになっていることをまず指摘しました。

 その上で、これまで朝鮮半島で作られてきた映画は、すべてセリフが朝鮮語だったけれど、この映画は、朝鮮語と日本語の両方のセリフがある、授業の場では日本語が使われるが、その後、子供たちだけの放課後の会話などでは朝鮮語が素直に出てくる。これはある意味当たり前で、しばしば韓国では「日本統治下で母国語が奪われた」という表現がされるけれど、そんなことはあり得ないしできもしなかったことが見て取れると述べました。

 そして、映画というのは、製作者の意図を越えて、ほんの1シーンで時代を切り取ってしまう時がある。それはこの映画のなかで、学校の授業の時間割が映るシーンで、そこには「朝鮮語」を表す「鮮語」という言葉が出てくる。実は1940年まで、朝鮮半島の学校では朝鮮語の授業もあった。朝鮮人の日本語理解質は、1943年でも22.16%であり、現実の朝鮮社会派統治下の最後まで、日本語と朝鮮語の二重言語の時代だったと下川氏は指摘しました。

 その他にも、この映画にはある種のモダニズムの空気があること、俳優や監督のその後の時代にどんな運命をたどったか、また、映画の中では森永キャラメルがとても印象的なシーンで出てくるが、森永に問い合わせたところ、これは映画とお菓子会社とのタイアップであったことなど、様々な興味深いお話が下川正晴氏からなされました。「日本統治下の朝鮮シネマ群像」に、さらに詳しく記されていますので、興味のある方は是非お読みください。

 下川氏は、日韓関係や歴史問題は、少なくとも今現在語られるような単純なものではなく、もっと複雑なものであり、それを、このような映画を通じ、当時の世相を見ることで感じることはできる、その為にも、今後もお誘いがあればどんどん上映会をやっていきたいとお話を結びました。

 最後に。少年時にこの映画を観た韓国人映画評論家の言葉を紹介します。

 「この映画は小学校に通うスヨンの貧しい生活と、美しい心を描いている。スヨン少年にとって、最も辛い日は、学校で授業料を納める日である。担任の先生が『授業料を持って来なかったものは立て』と言うと、肩をすくめて毎度のように立たねばならない。家は食べることすら難しいほどの貧困に喘いでいる。」

 「父と母は真鍮の箸と匙を作って売る商売をしているが、いつも遠い地方へ行商に旅立ち何カ月も家に戻ってこない。少年は70歳を過ぎた祖母と暮らしている。授業料を払えず、食べ物にもありつけないときは、大声で叫びたいほど両親が懐かしい。身体の悪い祖母を思って寂しさにたえる少年の姿が実に哀れだ。」

 「私は小学校3年生の時に、中国の天津でこの映画を観た。幼かった私は『授業料』を見て、主人公の少年が悲惨なまでに貧しい暮らしを営む姿に涙を流した。そして涙を流す一方で憤りがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。」

 「このころから私は映画が大好きだった。天津にあるいろいろな劇場に行っては、中国映画、日本映画、西洋映画をよく見た。少年時代に私が好んでみたものが活劇調の娯楽映画だったせいか、『授業料』を見て私が抱いた憤りは、朝鮮映画はなぜこんなに悲惨なんだろう、なぜこんなに泣かせるのか、という思いから来るものだった。しかし半世紀が過ぎた今、『授業料』が鮮明に残してくれた映像の記憶は、限りなく美しいものである。」(映画評論家李英一の文章、『日本統治下の朝鮮シネマ群像』下川正晴著 弦書房 より)

 この言葉もとても味わい深いもので、「生活は悲惨なのに、映像は限りなく美しい」というこの映画の本質をよく表しています。(終)

shimokawa

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