胡錦濤とチベット

 現中国現国家主席・胡錦濤が、一九八八年一二月から一九九〇年までチベット自治区党委員会書記を努め、当時の緊迫化していたチベットに戒厳令を敷いたことは広く知られた事実である。胡錦濤はこの時のチベット民衆蜂起を鎮圧した功績によってトウ小平などに評価され、後の出生コースに弾みをつけた。本稿では、胡錦濤の半生を辿りつつ、チベットにおける「弾圧政策」の実態を再検証する。基本的資料は、「胡錦濤」楊中美著 NHK出版、並びに「チベットはどうなっているのか」ペマ・ギャルポ著 日中出版を参照した。「改革派」「新世代の指導者」と見られる胡錦濤のもう一つの面、伝統的中華帝国の守護者としての顔を私達は目の当たりにすることになるだろう。

文化大革命での挫折を政治的原点として

 胡錦濤は1942年上海に生まれ、幼年時代を同地ですごしている。胡家は泰州の出身で、代々茶葉の問屋で財を成し、各地に支店を開いていたが、日中戦争の影響下商売は傾き、父胡増玉は泰州の本店を始め、上海以外の店を全て閉じて同地に1940年移住し、そこで胡錦濤が産まれたのだ。しかし、上海も日本軍の占領下となり、様々な事情から店は閉じざるを得なくなる。一家は落剥して再び泰州に戻り、母親は過労などから早くに死別、この体験は、胡錦濤に、日本に対する基本的な反感や歴史観を植えつけたとの指摘もある。

 その胡錦濤は、優秀な成績で出生への道を歩むが、彼の「出身身分」は、中華人民共和国では「小業主階級」という階級分類に属するものだった。両親は資本家でも労働者でもなく、一家で小さな私企業を経営していた階層という意味である。高校でも成績優秀で、清華大学水利学部に入学、一見エリートコースを歩んでいるように見えた胡錦濤も、この「出身身分」のゆえに、共産党の青年団体である「共産主義青年団」への入団は許されなかった。胡錦濤にとって、自らの出生のためには、労働者階層の生徒達の数倍学び、また、共産党の思想にさらに忠実であるしか道はなかったし、彼自身も自らその思想を信望していた。入学後、中国は大躍進政策の誤りから大規模な飢餓に襲われるが、胡錦濤は中国共産党への忠誠心を全く失わなかった。在学中にも学業だけではなく、文化工作団(歌舞団)などにも参加して共産党讃歌を歌い、演劇やダンスを上演している。
1964年、胡錦濤は中国共産党に入党した。これには、毛沢東の大躍進政策の失敗から、共産党内にトウ小平に代表される改革派、穏健派の勢力が強まり、才能があれば出身身分を問わず入党させるべきだという意見が主流を占めたことも大いに関わっていたらしい。

 しかし、胡錦濤の最初の強烈な政治的挫折体験は、この後の文化大革命だった。一九六六年から、今度は毛沢東が、自らの権力強化と、中国共産党の原点に戻る事を目的とした「プロレタリア文化大革命」を開始し、共産党内の劉小奇、トウ小平ら「改革派」「実権派」に対し、資本主義への道を開く反革命文士「走資派」として全面的に攻撃をかけたのである。清華大学でも、学長と大学の党委員会を「反党集団」と見なす、「大字報」こと攻撃のビラや新聞が造反派により貼られた。

 胡錦濤は、それまでと同じように基本的に大学の方針に忠実だった。造反派学生に対抗して学長を支持し、彼らを説得して混乱を沈めようと努力したが、このとき、劉小奇、トウ小平らは、何と毛沢東の攻撃をかわすために、一時的に「造反派」を支持し、精華大学に外部から干渉して「工作組」といわれる勢力を送り込み、学長や彼を支持する胡錦濤ら「保守派」を職務停止や沈黙に追いやったのだ。胡錦濤は「労働改造隊」に所属させられ、掃除、窓拭き、雑用などを強いられ、その後は黄河のほとり、甘粛州でダム工事などに従事する。この事件は胡錦濤の今後の政治生活に絶大な影響を与えた。文化大革命に象徴される民衆・学生運動への嫌悪感、いかなる政治党派をも信用せず、中立を保ちながら状況を見極める姿勢、権力闘争内部の力関係を常に監視し、実力者を見極めその意向を基本的に外さないこと。彼はこの教訓を決して忘れなかった。

胡耀邦とチベット、そしてダライ・ラマ法王の五提案

 そして、文化大革命も終わりを告げ、様々な権力の争奪戦の後、毛沢東は死去、「四人組」の打倒、極左・文革路線の放棄と、中国が再びトウ小平路線に戻る時が来た。1977年にはほぼこの路線は決定し、このトウ小平の下、実務を仕切っていたのが、改革解放のシンボルでもあった胡耀邦であり、彼は積極的に文革時代は弾圧されていた若手改革派を登用した。甘粛省において、持ち前の有能な事務能力と勤勉さで、建設委員会副主任として活躍していた胡錦濤は、まさに「胡耀邦チルドレン」として抜擢され、1982年党中央候補委員に選ばれたのである。同年、胡耀邦も共産党総書記に就任、改革解放の流れは揺ぎ無い物に見えた。
しかし、ここで左派からの反抗が起こった。経済面での改革開放路線と、文革への否定が、「資本主義による精神汚染」を招いているという批判が起こり、これにトウ小平も賛同したのである。トウ小平は改革開放経済は認めても、共産党の権威定価や自由化、民主化は拒否していた。この「反精神汚染運動」は、1ヶ月ほどで胡耀邦からの批判をトウ小平も受け入れて集結するが、この後の中国政局の対立と矛盾を暗示させる物だった。

 この後、胡錦濤は一九八四年には三千人の日本人訪中青年団を接待し、また共産主義青年団第1初期に選ばれた。しかし、この時期から「太子党」といわれる、いわゆる共産党幹部の子弟たちによる胡錦濤への嫉妬や反発が強まり、胡耀邦も、党内左派、保守派から激しい攻撃を受け始めていた。胡耀邦は胡錦濤を一時的に北京から遠ざけ、不毛な争いを避けさせると同時に、将来のための業績を積ませるために、貴州省の党委員会書記として派遣されることになる。
この州での胡錦濤の活躍は、胡錦濤の現在までの実務優先、経済優先の政治スタイルをよく体現したものだった。溶岩と岩山に覆われ、中国内でも伝統的に貧しい地方である貴州で、胡錦濤は徹底した現地調査に基づく「脱貧」政策を実施した。傾斜地に無理に作られた農地は林地に戻し、穀物中心の農業をやめ、植林、果樹園、亜熱帯植物栽培(タバコ、アブラナなど)に力を注いだ。これは「立体農業」といわれ、大きな収穫と経済発展をもたらした。さらに商工業を奨励して私営企業を成長させ、小中学校の教育経費を増額し、さらには計画出産を経済的に奨励して人口抑制策を実行した。(後の二つは、この地域の民族の力をそぐことにも繋がる管理政策でもある)
しかし、胡錦濤がこうして一定の成果を挙げている時期、中国中央政界は再び激しい権力闘争を迎えていた。一九八六年、改革解放と共に、中国の民衆、特に学生達は経済だけではなく政治の自由化、民主化を求めて、全国的に学生運動を起こし始めた。胡耀邦は、彼らの要求に対し同情的で、学生との対話と相互理解を通じてさらに改革開放を推し進めようとしていた。 

 しかし、これはトウ小平にとって絶対に許せない選択だった。かって文化大革命時に自らも学生達に糾弾され幾度も失脚した経験を持つ彼は、権力がいかなる場合であれ下からの運動に屈することを拒否する姿勢があった。一九八六年一二月三〇日、トウ小平は胡耀邦党総書記、李鵬副首相、趙紫陽首相を呼びつけ、「今回の学生運動の発生は、党総書記の胡耀邦がブルジョア自由化反対に弱腰だったことが原因だ」と厳しく批判した。党内の左派、保守派だけではなく、この時は改革派のはずの趙紫陽すらも、ライバルの胡耀邦を追い落とすチャンスと判断し批判に転じた。胡耀邦は孤立し、一九八七年一月党総書記を辞任、事実上の失脚となった。そしてこの一九八七年、チベットの首都、ラサで大規模な民衆独立決起が沸き起こったのである。

 胡耀邦は、歴代の共産党指導者の中では最もチベットに同情的な発言をした人物の一人だった。彼は1980年、改革開放政策が始まったばかりの時期、チベットでこれまでの共産党の政策の誤りを明確に批判している。
「今までのやり方はまるで植民地主義のやり方だ。極左路線は党の本来の民族政策、経済政策、宗教政策、幹部政策、及び党外有識者と連帯するための統一戦線政策をことごとく破壊してきた。文化大革命の間、全国の人民と同様、チベット人民にも多くの苦難を強いてしまった」

 胡耀邦はチベット独立や民族自決権を認めていたのではない。しかし、従来の政策を改め、ダライ・ラマ法王の亡命政府と対話する姿勢を示した始めての共産党指導者だった。ダライ・ラマ法王も胡耀邦の率直な姿勢を評価していた。80年までには亡命政府代表団のチベット訪問も数回にわたって実現した。しかし、この流れは、胡耀邦の失脚により後退し始める。この時期、ダライ・ラマ法王はチベット側からの提案として、1987年9月21日、アメリカ国家人権小委員会で、チベットの地位についての「五項目提案」を発表した。

1、チベット全土を平和地帯とすること。
2、民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。
3、チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
4、チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。
5、将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。

 この提案は「独立」を明言化する事は避けつつ、胡耀邦失脚後の中国がチベットとの対話を後退させるのではなく、より民主主義と自由、各民族の自治・自決を尊重させる形で前進させる事を目指すものだ。この時期、中国民主化の流れを後退させないためにも、また始めて少数民族の自決権を中国で確立するためにも、民主主義を価値を置く諸国国家は、この法王提案を支持し中国に対話に応じるよう呼びかけるべきだったはずだ。そして、この提言に対し中国側は、最悪のタイミングで、挑発としか思えない方法でチベット民衆に答えたのである。

提案に弾圧で答えた中国

 9月24日、ラサのサッカー場にて公開裁判が行われ、チベット人2名の死刑と9名への懲役刑が宣告された。彼らを中国側は刑事犯だと主張したが、チベット人たちは誰もそれを信じなかった。さらに、ダライ・ラマ法王を批判するポスターがチベット自治区当局により街角に貼られた。民衆は、独立への期待と、同時に中国が再び抑圧体制に戻ることへの危惧を同時に感じ、自らの意志を行動によって示そうと立ち上がった。

 9月27日午前9時ごろ、約200名の僧侶、民衆がチベット国旗を掲げ、ラサ市内でデモ行進を開始した。このデモ行進は26名の逮捕者を出し、中国政府はダライ・ラマ法王に発言をさせたとしてアメリカを強く批判、さらにチベット自治区政府は27日のデモを「一握りの不満分子」のものと見なし、デモに参加しないように呼びかけた。このような姿勢は当然チベット民衆の怒りに油を注ぐようなものだった。

 10月1日午前9時、再び300名の民衆が「チベット独立」を叫びながらデモ行進を開始。30名ほどの僧侶が先頭に立っていたが、彼らは直ちに扇動者として警察に逮捕された。怒った民衆は僧侶の解放を求めて警察署に向い、さらに多くの民衆が参加して警察と衝突した。午後1時、警察はついに署内部から発砲、人数はいまだ不明だが、少なくとも14人が死亡している。中国の「民主化」「改革解放」の限界と本質が、チベット人の血と生命によって明らかになった事件だった。

 翌年一九八八年三月、ラサで再び決起が起きる。3月3日、チベット暦では1月15日、正月の大祭日に当たる。しかし、決起を恐れた中国側警察は至る所で巡礼者の交通を妨害し、ジョカン寺の前のパルコル広場でも交通を規制するだけではなく、左回りで歩くよう強制した(チベット人の習慣では必ず右回りに歩かねばならない)。中国側はこの祭典をやめさせようとしたのではなく、完全管理と統制の中、平穏に開かせる形でチベット民衆が秩序に押したがいつつある所を見せようとしたのかもしれない。しかし、この姿勢は逆にチベット人の誇りや信仰を踏みにじるものだった。

 当初、僧侶達の多くはこのような警察の管理下での祭典参加を拒否していたが、中国側は僧侶を強制的にトラックなどで寺につれてくるなどの暴挙を行って祭典の形を整えようとした。しかし、ここで僧侶達は思いもよらぬ行動に出た。彼らは強制的に並ばされると、直ちに民衆に「チベット独立」などのスローガンを叫び始めたのだ。祭典に参加していた民衆は歓声を上げ、警官隊に投石などで立ち向かった。警官隊と民衆との衝突は夜半まで続き、多くの死傷者を出した。これらの情報は、いずれも現地に参加していたジャーナリストや観光客によって外部にもたらされた。この時はジョカン寺には催涙弾が打ち込まれ、警防や銃剣で僧侶や民衆が暴行を受けたことも多くの目撃者が伝えている。
 この後もチベット全土でデモや抵抗運動が続く中、ダライ・ラマ法王は一九八八年六月十五日、欧州議会にて、再び中国政府に対し提案を発表した。以下がその主要部分である。

更なる提案と譲歩、中国全土の民主化を望んだ法王提案

(1)チベット全土は、独立した民主主義体制の国家にならなければなりません。しかもそれは、中華人民共和国と共同して国民共通の利益と彼ら自身の環境の保護に対する国民の賛同による法律に基づくものでなければなりません。

(2)中華人民共和国はチベットの外交政策に関して持続した責任を持つことになります。しかし、チベット政府は外務省を通じて宗教、商業、教育、文化、観光、科学、スポーツ、その他の非政治的活動分野における関係を維持し発展させます。チベットはこうした活動に関する国際組織に参加すべきです。

(3)チベット政府は基本法の継続を土台として設置されなければなりません。基本法は平等、社会主義、環境の保護を確実なものにする任務を委ねられた民主的政治体制を規定したものでなければなりません。これが意味するものは、チベット政府はチベットとチベット民族に関係する全ての事柄に決定権を持つということです。

(4)個人の自由は、すべての社会にとって発展への真の根源であり、可能性でもありますから、チベット政府は言論、集会、宗教の自由を含めて、あらゆる努力を払って世界人権宣言を守り抜き、この自由を確実なものとしていくでしょう。宗教はチベットの国家的アイデンティティーの根幹を成すものであり、精神的価値はチベットの豊穣な文化の中心にあるものですから、それを守りその実践を促進するのはチベット政府の特別な任務であると言えます。

(5)政府は、国民投票で選ばれた最高責任者と二院制の立法府、そして独立した司法制度から構成されなければなりません。本拠地は、ラサに置くべきでしょう。チベットの社会的経済的制度は、全国民の生活水準を引き上げの必要を特に考慮した上でチベット国民の望みに沿うよう、定められるべきです。

(6)チベット政府は、野生動物や植物を守るための厳しい法律を可決しなければなりません。天然資源の開発は、慎重に規制されることになるでしょう。核兵器や他の兵器の製造、実験、備蓄は、危険な廃棄物を産出する核エネルギーやテクノロジーの使用と共に禁止されなければなりません。チベット政府の目標は、チベットを私たちの惑星最大の自然保護区にすることになるでしょう。

(7)非武装化を通して、チベットを真の平和の聖域とするために、地域平和会議が召集されるべきです。このような平和会議が召集され、非武装と中立が達成されるまでは、中国がチベットに一定数の軍事施設を維持する権利を有することに鳴ります。これらの施設は、単に防衛目的のためだけでなければなりません。

(8)実りある交渉につながる信頼感を作り出すために、中国政府はチベットでの人権侵害をやめ、チベットへの中国人移住政策を停止すべきです

 これがダライ・ラマ法王の新しい提案であり「中国政府が今後もチベットの外交政策に関して持続した責任を持つ」(現時点では)「中国がチベットに一定数の軍事施設を維持する権利を有する」などの点を承認するなどの妥協案を示した上で、「(1)チベット全土は、独立した民主主義体制の国家」であると共に「中華人民共和国と共同して国民共通の利益と彼ら自身の環境の保護に対する国民の賛同による法律に基づく」、いわゆる中国との平和共存体制を志向する方向性を打ち出した。この方針は「高度な自治」を求める法王の現在の姿勢に繋がるものであり、当時多くの亡命チベット人からも、完全独立の放棄ではないかという怒りや混乱の声が挙がった。しかし、この声明は中国民主化運動、民族独立運動にとって重要な視点が提示されていたのだ。

 まず、学生を中心とした民主化運動が中国国内で発生していたこと、同時に胡耀邦に代表される、改革解放と共に民主化をも実現しようという政治家は逆に追い詰められていたのが中国の現状だった。チベットにおいても、民衆の怒りは決起の形で現れ、血生臭い弾圧を読んでいた。中国とチベットが、ここで犠牲を出さない形で双方が承認できる「中道」の道を選択するためには「民主化の一環としてのチベット問題解決」「中国とチベットの和解と平和共存」という、胡耀邦ラインに沿った形での解決を図ることで、他の民族問題にも適合できる和解案を実態として示すことが法王の提案だった。同時に、中国内での民主化勢力がこの提案に政治家・運動家共に共感すれば、チベット亡命政府、チベット国内の民衆運動、そして広範囲な中国の民主化勢力が、欧米などの国際世論をも味方につけることが可能となり、広く中国全土のペレストロイカに繋げる可能性をも産まれえたはずなのである。

 勿論、この動きが実現するには、少なくとも3つの国際的な大きな動きが必要だった。先ず第1にダライ・ラマ法王提案に対する国際的な支持世論であり、第2に中国民主化運動がなによりもこのような民族問題の解決なくしては成り立ち得ない事を、中国民主化運動家、政治家が理解して法王の声に耳を傾けることであり、最後に中国政府のチベット弾圧、民主化弾圧に対しての実行力のある国際的な制裁・抗議の施策が取られる事である。残念ながらこのいずれも国際社会は選択せず、中国は法王の提案の理想、民主主義と各民族和解の道に進むのではなく、チベットに新たな「支配者」として派遣された胡錦濤の路線、「力による民主主義の圧殺」が中国全土を覆うことになる。

パンチェン・ラマの死からラサ戒厳令

 一九八八年十二月十日、世界人権宣言採択四十周年記念日、ラサで再び僧侶と民衆によるチベット独立を求めるデモが起こった。中国がダライ・ラマ法王に答えれば、また国際社会がそれを強く要求すれば避けられたはずの衝突は再び起きた。今回は警官隊は警告もなく直ちに発砲、少なくとも僧侶27名が死亡したとされる。そして十二月二八日、胡錦濤がチベット党委員会書記に任命される。これは特にトウ小平の強い推薦によるものだった。

 共産党中央のチベット政策は次の3点を主軸にするものだった。(1)幹部人事の一新。胡耀邦時代、チベット人党員を自治政府の幹部に多数登用したが、漢民族の共産党幹部を大幅に中央から派遣し増加する。(2)チベット経済発展のために支援を行い、逆に政治意識や独立志向を弱める(3)パンチェン・ラマ10世をチベットに送り、民衆の不満を収めさせる。パンチェン・ラマはかって1962年、毛沢東のチベット政策を激しく批判する文書を発表し、それ以降北京に事実上の監禁状態にあったが、この宗教者をチベットに戻すことによって民衆の反感を弱めようとしたのである。

 一九八八年末、チベットに戻ったパンチェン・ラマ10世は、民衆の熱烈な歓迎を受けた。そして、パンチェン・ラマは、デモで逮捕された政治犯が拷問を受け、処刑される事を防ぐことに尽力し、同時に、中国当局には未だにチベットへの無理解があり、民族意識のあるチベット人には職を与えず、中国追従のチベット人だけを優遇していること、文革時の極左派の過ちを未だに反省せず、同様の弾圧を行っていることなどを批判した。パンチェン・ラマは立場上、中国政府に対し明確な批判姿勢を取った事は少なかったが、最後までチベット民衆の幸福とダライ・ラマ法王のチベット帰還を求めていた事は疑いを得ない。しかし、一九八九年一月二十八日、パンチェン・ラマは再建されたばかりのパンチェン・ラマ霊塔の供養式の最中に倒れ、そのまま世を去ってしまったのだ。

 これでチベット情勢は一気に緊迫した。胡錦濤は、二月六日、ラサで二月末から三月まで従来行われるはずの「大法会」を中止する事を発表した。勿論、ここで集結する僧侶達の決起を防ぐためのものである。同時に、チベット人側から見れば、これこそ民族の誇りを踏みにじり、ダライ・ラマ法王の提案に中国側が全く応じる気持ちがなく、あくまで力と統制で対応する事を証明したものだった。翌日7日には早くもデモが起き、胡錦濤は直ちに郡責任者を含む緊急等委員会を招集・非常時には軍の指揮権を含む全権を自分に与える事を共産党中央にも要請した。

 これに答えたのが、トウ小平、そして趙紫陽だった。趙紫陽は自ら胡錦濤に電話をかけ、軍の命令権を保証すると共に、党中央名義で政策文書を作成、胡錦濤の軍指揮権に法的根拠と中央のお墨付きを与えた。元来共産党権力の絶対化を志向するトウ小平だけではなく、民主化勢力に同情的なはずの趙紫陽らも、チベット問題に関しては全く無理解だったのである。そして、胡錦濤自身も、胡耀邦が示したチベットへの同情はかけらもなかった。

 三月五日、ラサ最大の決起が起きた。僧侶と民衆は、チベット独立、ダライ・ラマ方法ご帰還などのスローガンを掲げてデモ行進を行い、警察と衝突、警察は今回はほとんど無差別の発砲を行ったという。怒った民衆と武装警察との戦いは3日間にわたって繰り広げられ、市街戦さながらの状態が続いた。中国側は「死者12名、うち一名は警察」としているが、ダライ・ラマ亡命政府は「死者六十人以上、負傷者100人以上」と伝えている。そして、当時外国通信社が観光客や様々な情報源から類推した数字では、死者は五百名から八百名とも言われる。

 七日夜、胡錦濤は党、軍首脳部を召集、ラサに戒厳令を敷く事を宣言。
この時胡錦濤はこう述べている。

「我々は祖国の統一、または分裂に関わる重大な問題に関して(中略)立場をはっきりさせなければならない。今、チベットで我々が一歩でも退いたとしたら、我々は民族の罪人となってしまい、第2の秦檜(南宋の宰相、金国との中国南北分断を推進した)汪兆銘になってしまう。従って、今、我々は軍を出動させ、ラサで戒厳令を敷かなければならない。こうして初めて情勢を安定させることが出来るのだ」

 一部の反対意見は押し切られ、また共産党中央も胡錦濤の判断を全面支持した。戒厳令は李鵬首相の名において三月八日に公布。八日零時、胡錦濤は軍服をまとい、ヘルメットをかぶった姿で、戒厳軍部隊と共にラサ街頭に現れた。そして、同時に以下のような命令が発布されていた。
「一九八九年三月八日零時を持って、ラサ地域に戒厳令を実施する。

戒厳令実施期間中はデモ、集会、ストライキ、請願、その他の集団的な活動を一切禁止する。戒厳令実施地域では、交通管制を実施し、出入りする車両や人員に関し摘発を行う。その検査において疑いがあると思われるもの、騒ぎ立てるもの、また何かを密かに隠すものなどは、直ちに連行し、更なる調査を行う。連行を拒んだり、抵抗を煽ったりするものは厳罰に処す。

いかなる者でも、いかなる場所でも、いかなる方法でも、独立要求を扇動したり、混乱を起こしたり、権力機関を攻撃したり、公共施設を破壊したりする事は、絶対に許されない。公安警察、武装警察、軍はこれらの行為に対して強硬措置を取っても良い。上記のような行為をしたものは、その場で拘留する。もし暴力による抵抗が行われたら、直ちに銃殺してもよい。」

 残虐ではあるが徹底した布告だった。胡錦濤は、胡耀邦や、他の改革派政治家に会った民衆弾圧へのためらいはこの時全くなかった。

評価された胡錦濤のチベット弾圧

 この約1ヵ月後、北京、天安門広場では、世界注視の中、民主化運動が繰り広げられる。四月十五日、胡耀邦が病死(果たして彼はかっての愛弟子がチベットで行った弾圧をどう思いながら世を去ったのだろうか)、この追悼集会に端を発して、北京では民主化を求める学生達が決起して天安門広場に集結した。トウ小平は四月二十五日の段階で「これは動乱である」と見なし、党幹部に「迅速に処置せよ」と命じている。以下は、トウ小平の二十五日段階での講話である。

「これは通常の学生運動ではなく動乱である。断固として阻止し、彼らに目的を達しさせてはならない。これらの者達は、ポーランド、ユーゴスラビア、ハンガリーやソ連の自由化思想の影響を受けて、動乱を起こした。その目的は共産党の指導を転覆し、国家、民族の前途を喪失させることである」「我々は他者が罵倒すること、評判が悪くなること、国際世論の反応が悪くなることなどを恐れてはならない。」そしてトウ小平は、早い段階での民主化運動の弾圧を指示した。

 しかし、趙紫陽ら民主派政治家は、チベットの民衆はあれだけ簡単に見捨てたものの、マスコミが自由に取材し、世界に情報が伝わる北京での、しかも自分達の支持基盤である民主派学生を弾圧する事はためらった。学生の抗議デモは広がる一方で、彼らは5月13日には指導者らが政府との対話を要求してハンスト闘争を打ち出し、これに呼応して100万人のデモ行進までも発生した。5月16日、トウ小平は決断をためらう共産党指導者たちを押し切って、ついに戒厳令布告を中央政治局で決定する。趙紫陽は辞任、19日、涙ながらに広場のハンスト隊の前に姿を現し、「学生諸君、我々がくるのが遅すぎた、批判は甘んじて受ける」という事実上の「敗北宣言」を行う。この時の趙紫陽の心境は確かに痛ましい。しかし、この僅か2ヶ月もたたない前、チベットでの流血の弾圧を自ら支持していた事を、彼はもう一度思い起こすべきだったろう。いや、おそらくその様な比較が趙紫陽の脳裏をよぎりすらしなかったことが、中国民主化勢力の根本的な問題点なのだ。

 5月20日、戒厳令布告。六月四日、戒厳軍は天安門広場に突入、多くの市民、学生の犠牲の上に民主化運動を鎮圧する。これは確かに悲劇的な事件であり、今も尚中国民主化運動の犠牲のシンボルとして天安門事件は語り継がれている。だが、トウ小平にとっては、趙紫陽ら改革派の政治家の弱腰、政治的決断力のなさを印象付けた事件でもあり、共産党権力を守るという点では同じ意見でも、改革解放に消極的な共産党保守派(李鵬など)と今後協調していくのも避けたかった。トウ小平は、経済的には現実に即した改革解放、しかし政治的には共産党権力を揺るがせず、民族独立などは許さず、必要ならば国際的な批判を受けることも辞さずに戒厳令を敷く決断力のある胡錦濤を、この時期最大に評価したようだ。

 チベットの戒厳令は一九九〇年五月一日まで、何と四一九日間に渡った。その後、胡錦濤は多くの中国人指導者と同じく高山病に悩み、チベットを去る。その時点では、天安門事件以降、江沢民指導部は保守派が権力を握って改革開放のスピードが明らかに落ちていた。いらだつトウ小平は、改革のスピードを挙げるよう命じた。江沢民はこれに答えて改革派の若手を多数登用し、胡錦濤は、改革派にとってはその経済面での実務能力を、また保守派にとっても、チベットにおける戒厳令布告の鮮やかな手口を評価される存在だった。これ以降、胡錦濤は順調に国家主席への道を歩むことになる。

 この意味で、チベットは胡錦濤にとって大きなステップ・アップの場であった。しかしそれは同時に、この人物の本質的なマキャベリズムと残酷な抑圧者としての面も明らかにしている。そして、胡錦濤のチベット政策は、独立運動は許さないが経済発展のためには様々な手段を尽くし、民衆から民族意識や独立意識、信仰心などをなくさせるというものである。この評価と批判はまた別項に譲るが、私たちが忘れてはならないのは、チベットの弾圧を見捨てた国際社会は、それ以降の軍拡・抑圧国家としての大国中国の出現を許してしまったという厳然たる事実である。ダライ・ラマ法王が、チベット側が譲歩してでも示そうとしたのは、民主的な中国の実現とチベットとの平和共存であり、民主化と民族自決・自治権が両立して実現している、中国のあるべき未来像だった。しかし、このメッセージは中国民主化運動家、政治家にも、国際社会にも、勿論中国共産党政府にも届くことなく、逆に当時の胡錦濤(=トウ小平的)世界観、人間を暴力で抑圧し、同時に経済的利益で黙らせてしまう中国社会を出現させたのである。そして、その中国が行き過ぎた拝金主義に陥る時、今度は中国政府は江沢民時代以降、国民を団結させるために、民主主義なき愛国主義・反日教育・中華思想と排外主義を教え込んでいる。

 中国において、民族自決権、自治権への最大限の尊重なき民主主義は意味を持たない。チベットでの民衆弾圧に明確な抗議を示さなければ、そこで民衆に撃ち込まれた銃弾がいつか自分たちに襲い掛かる事を、当時の民主運動家も民主派政治家も充分意識していなかった。しかし、ダライ・ラマ法王は、ダラムサラにて天安門事件の犠牲者のために心から追悼の祈りを捧げている。この精神がいつか全ての中国民主化運動に共有される時こそが中国が解放されるときであり、その時は漢民族自体が、自らのまとっている偏狭な中華思想や大国主義から大きく解き放たれる日であるはずだ。(M)



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