脱北者の平壌記者会見について : 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

異例の元脱北者の会見も平壌で…
今年に入り脱北者が急減 中朝間での取り締まり強化が原因か

統一日報 2012年07月04日
http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=70348&thread=01

 北韓の金正恩体制発足後に、韓国入りした脱北者数が大幅に減少していることが分かった。韓国統一部が1日に公表した資料によると、今年5月までに韓国入りした脱北者数は前年同期比42・6%減の610人だった。このペースが続けば、韓国入りした脱北者数は昨年の半数にとどまる見通しだ。
 政府当局者は「金正日総書記の死去以降、中朝国境地域の取り締まりが強化されたことが原因とみられる。脱北後に韓国に入国するまでは時間がかかるため、現在のペースが続くかどうかはまだ見守る必要があるが、減少したのは確かだ」と説明した。

 今年初めに中国当局による脱北者の強制送還問題が国際的な批判を受けてから、中朝国境地域では脱北者に対する取り締まりが強化された。現地メディアによると、中国当局は朝鮮族が多く居住する延辺地域で外国人の入国・滞在・就業などに対する取り締まりを強化した一方、中国の法律違反に厳しく対応している。同地域は北韓住民の主な脱北ルートであり、こうした取り締まり強化が脱北者の減少につながったとみられる。

 北韓も住民の離反防止や体制引き締めに力を入れている。先週、韓国で暮らしていた脱北者の中年女性が北韓に戻り、韓国を非難する記者会見を開いたのがよい例だ。
 朝鮮中央通信によると、記者会見は6月28日に平壌で、中国やロシアなど外信記者を招いて開かれた。女性は韓国で脱北者は自由に仕事も選べず、「韓国の脱北者の自殺率は一般の5倍」などと主張。韓国で暮らす脱北者は北韓への帰還を切実に願っていると述べ、脱北の罪を許してくれた金正恩への感謝の言葉を述べた。

 韓国政府は女性が実際にソウルで暮らしていた元脱北者と確認。当局によると、女性は東部の清津市で暮らしていたが2006年3月に脱北、第三国を経由し同6月に韓国入りした。約6年間ソウルに住んでいた女性がいつどのように北韓に戻ったかは把握できていないという。

 韓国の一部メディアによると、女性は北韓に残った息子が炭鉱で強制労働させられており、北韓の秘密警察に当たる国家安全保衛部が「戻らなければ殺す」と言っていたことを北韓内の親族から聞いたという。実際に女性の知人は5月、ソウルの中国大使館で開かれた「脱北者の強制送還」反対集会で、「女性が『息子のため、北韓に戻る』と話していた」と証言したという。

 北韓メディアが元脱北者の会見を開くのは極めて異例。ある脱北者は「常識では考えられない。中国で韓国人と会話をしただけで政治犯収容所に送られるのに、韓国で6年も暮らした人の記者会見を開くことはありえない」と説明している


上記統一日報記事では、脱北者が北朝鮮に戻った場合記者会見を開くのは異例のことと記しています。確かに、韓国からの場合はそうかもわかりませんが、脱北したのち日本に受け入れられ、さらにまた北朝鮮に帰ってしまった人は私の知る限り2人いますが、いずれも、平壌で記者会見をいたしました。

もうあまり覚えている方もいないとは思いますので、私とも多少ご縁のあった石川一二三さんが北朝鮮に戻った時、私が「中国民族問題研究」という保守系ミニコミに書いた文章を再掲載いたします。

韓国の場合はハナ院もあり、かなりの定着支援システムができています。しかし、現実に脱北者の方々がきちんと社会に居場所があるかといえば必ずしもそうではないようです。もちろん、本人の努力も必要だし、またまったく違う価値観の世界に来たのですから、簡単に新たな社会ルールを身に着けて社会に着地できる方がおかしいのかもしれません。

しかし、今後北朝鮮の民主化、独裁政権打倒を志すならば、一時的にこのような脱北者の周辺諸国での受け入れや保護を考えるのは避けられない現実です。北朝鮮の体制が悪しきものであるならば、そこから逃れてきた人を犠牲者として暖かく受け入れるのも、自由と民主主義諸国の国際的責務でしょう。これはウイグル、チベット、中国の民主運動家にも言えることです。彼らが正当な人権と自由を求めているならば、彼らへの保護、場合によっては難民としての受け入れも必要なはずです。(三浦)


日本国民『石川一二三さん』が北朝鮮に戻った
三浦小太郎

北京で記者会消した一人の女性

6月26日午前9時、北京の北朝鮮大使館で、一人の女性が記者会見を開いた。名前は都チュジさん。自らを「朝鮮民主主義人民共和国国民」と名乗り、2003年10月に日本に『悪い人』に騙されて連れてこられたが、今息子達のいる北朝鮮に戻ります、日本は自分の知っている40数年前の日本とは全く違った冷酷な社会になってしまっていた、というのが記者会見の内容だった。日本人妻平嶋筆子さんのケースに続いて、一度日本に戻ってきた脱北者が再び北朝鮮に戻るのは2人目のことだ。

都チュジとは朝鮮名であり、彼女の本名、そして彼女自身が拘っていた名前は『石川一二三』である。彼女は一九四九年十月二八日、神奈川県川崎市で在日朝鮮人の父と日本人の母との間に3女として生まれ、六〇年両親とともに、北朝鮮帰国運動で北に渡った。彼女は日本で日本人妻の子として生まれた為、日本国籍を保持している。彼女は日本に最初に来た時に「私の母は辛い人生を送ったけど、ただ一つ、この日本国籍だけは私に残してくれました」と語っていた。私は以下の文章では、彼女のことを『石川一二三さん』と呼ぶことにする。

石川さんの兄は、北朝鮮を先に脱北、瀋陽日本領事館にたどり着き保護され、日本入国を果たしていた。後に「北朝鮮大脱出」(新潮OH文庫)を書く宮崎俊輔氏(ペンネーム)である。兄は自分達の家族を助けるべく、支援者に資金その他の協力を得て2003年中国に渡り、現地朝鮮族のブローカーを使って北朝鮮国内の家族と連絡を取った。結果、石川さんは中朝国境まで出てきて、兄の説得のもと瀋陽日本領事館を目指した。
石川さんが私に語ったところでは、彼女は兄と数年ぶりに対面し、経済的支援を受けることを目的で中朝国境を目指したので、日本に来る明確な決意を持っていたわけではないようだ。しかし、もし全く脱北の意志がなかったのなら、石川さんはその時点で同行を拒否すればよく、その後瀋陽領事館に約2週間保護されていたが、その間にも日本に行く意志はないことを表明すれば、それなりの外交的解決が為されただろう。彼女自身もまた兄も、北朝鮮で生きていくより、日本での生活の方が遥かに希望があることを、この時点では認識していたはずだ。

しかし、11月以降千葉県で生活をはじめてから、石川さんには様々な現実がのしかかっていった。日本政府は石川さんの日本国籍を認め、さらには生活保護の形で最低限の経済支援をしてくれた。日本国民であれば、この範囲内で質素でも静かに暮らしていくことは可能だったろう。しかし、石川さんのアパートに引っ切り無しにかかって来たのは、北朝鮮に残してきた息子達や親族からの悲鳴のような電話だった。

残された息子達からすれば、豊かな日本に戻った石川さんから、それなりの経済的支援が送られることを期待していた。しかし、生活保護の彼女にはそれに答えるすべがなく、いくら説明しても、北朝鮮とは全く政治・経済体制が異なる日本のシステムは伝わらなかったようだ。しかもこの電話はコレクトコールであり、長時間話せば高価な電話代がかかる。石川さんも家族に、電話ではなく手紙などにするよう説得していたようだが、現実に電話口で子供の声が聞こえれば、母親として中々切れないのが人情である。電話代だけで数万円を請求されることもあった。

日本に最期まで馴染めなかった悲劇

そして、日本の生活に石川さんは最期まで馴染めなかった。まず、まだ10代すぐで北朝鮮に帰国したせいか、日本語は会話に問題はなかったが、漢字を読みこなすことはできず、必然的に新聞、雑誌、本などを読む楽しみもなかった。アルバイトをしようと試みたこともあったがうまく行かず、自分が今の日本社会で生きていく自信を持つことも出来なかった。NGOの紹介で小さな内職は行っていたようだが、それでは北朝鮮の家族が求める金額には程遠かった。北朝鮮で親族が逮捕され、釈放する為にどうしてもお金がいると私に個人的に頼みに来たこともある。しかし、お金の貸し借りはやはり人間関係を気まずくする。次第に私も、彼女から距離を取るようになったことをここで正直に告白しておく。

そのうちに、彼女自身、北朝鮮に帰りたい、家族に会いたい、日本にいても孤独なばかりだと、他の脱北者の前で口にするようになる。その結果、日本に定着しようと前向きに努力している脱北者達は自然と彼女を疎んじるようになった。兄との関係もやがて対立、絶縁状態になっていた。実は石川さんは姉も脱北して日本にたどり着いたのだが、そのことも、日本社会での安定に繋がるより、かえって北朝鮮に残った家族のことを話し合う中で益々精神状態は悪い方に向かって行った。かつ、日本社会は石川さんたちが生まれ育った50年前とは異なり、よかれ悪しかれ核家族化の中、隣近所の付き合いや地域の共同体は失われている。石川さんには、アパート暮らしで、隣近所の付き合いも無い日々が酷く冷淡な社会を感じさせた。彼女の、この国はすっかり変わってしまった、自分の好きな日本ではなくなった、という言葉の中には、北朝鮮の宣伝を越えて、彼女なりの本音がにじみ出ている。

そして今年の春決定的だったのは、息子の一人が亡くなったという連絡が石川さんに来たことだった(実際に死亡したのはもっと前だったようだが)。彼女はそれ以降、もう北朝鮮に行くことしか考えられなくなったのではないかと、最期まで支援した方が私に語ってくれた。息子達からは、最近ひたすら、帰ってきてくれという電話が相次いでいたようだが、そこに来て一人の息子が死んだことは、石川さんを、もう親子が一生、生き別れのまま終わるという追い詰められた想いに駆り立てられたのだろう。

石川さんに限らず、日本に入国した脱北者に共通する最大の不安と苦悩は、北朝鮮に残る家族の生活であり、その安全である。慣れない環境で働いて得たわずかな収入のなかから、あるいは生活保護費を節約してためたお金を、”命の水“として北朝鮮の家族にとどけようとしている。日本に脱北した自分のせいで北朝鮮に残る家族が監視され、時には拘束され、送金したお金もそのまま家族の手元に届くことはない。北朝鮮当局の欺瞞性と恐ろしさ、邪悪さ、卑劣さを知り尽くしているのは脱北者自身である。
だからこそ、金正日への忠誠を表明し、北朝鮮当局の意図を体現することで、子供たちの安全を守ろうとする悲劇的な行動が生まれてしまうのだ。

しかし、この問題の本質は、北朝鮮政府が国内で弾圧政治を繰り広げ、また脱北者に対してもその家族や子供を人質に、精神を追い詰めるような宣伝工作を行っていることである。幸い、多くの脱北者は日本での定着にむけて懸命の努力をしている。彼らに対し、職業訓練、日本語教育などの支援をもう少し政府や公的機関が行い、精神的に追い詰められたときに彼等が相談するようなケア施設や相談窓口があれば、このような事態は避けられるはずだ。脱北者保護は単なるヒューマニズムではなく、北朝鮮政府と戦う戦略の一環だという意識を、日本政府には是非持っていただきたい。


脱北者の平壌記者会見について : 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
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