3月9日、文京シビックセンター会議室にて、アジア自由民主連帯協議会主催の講演会「中華人民共和国は侵略国家として成立した」 講師 酒井信彦(アジア自由民主連帯協議会顧問)が開催されました。
冒頭まず酒井氏は、チベット侵略について、1950年段階で中華人民共和国はチベット侵略を開始、チャムド地方を制圧していることに触れ、同時期に朝鮮戦争が開戦していること、そしてこの朝鮮戦争では一説によれば400万人の犠牲が出ていることなどを指摘、東アジアは第2次世界大戦直後から、ベトナム戦争も含めて様々な戦争や侵略が起きたことを再確認しました。
そして、中華人民共和国はチベット、ウイグル、モンゴルなど諸民族の地を侵略・併合し、これはソ連のやり方同様、共産主義多民族国家としての覇権を確立した、実は第一次世界大戦で独立を果たしたバルト三国なども第2次世界大戦後はスターリンのソ連に次々と併合されており、ソ連はかえって戦後領土を増やした事実を酒井氏は指摘し、ナチス・ドイツと比較して、ヒトラーとナチスの、ベルサイユ体制打倒、ベルサイユ体制でドイツから奪われた領土を取り返し、さらに侵略で領土を広げるという発想とソ連のスターリン政権は全く同じだった、とユダヤ人虐殺とソ連の収容所体制を比べても、この二国にほとんど違いはないと述べました。それなのにナチスは米英により滅ぼされたがソ連は生き残るばかりか領土を第2次大戦後拡張したのは、これはソ連がナチスに攻撃されて欧米側に立って戦ったからに過ぎないと、世界政治のマキャベリズムを指摘し、第2次世界大戦、大東亜戦争後は植民地が独立できたという説は中華人民共和国とソ連を見るだけでも当てはまらないと指摘しました。
清帝国以後の歴史を酒井氏は、まず満州族からなる清国がシナを征服し、さらにはチベット、モンゴル、ウイグルを征服して清帝国が成立するが、実は清帝国は最初からこれら諸民族を支配していたのではなく、チベットは18世紀前半、ウイグルは後半に征服したのであって、当初から大帝国であったわけではないとまず述べた上で、清以前、明の時代、つまり万里の長城が北側、チベットが東側の国境線だった時代があったことを忘れてはならないと語りました。
その明の時代は、現在言われているチベット自治区の領土とは異なり、元々現在の四川省、青梅省、雲南省などの一部にまたがる更に広い領土だった、これは平面的な地図ではわかりにくいが、立体地図で見れば、四川省の成都から西に向かえば、急に高地が上がり、平均海抜4000メートルの高地地帯となる、これを見るだけでも、現在中華人民共和国が「西蔵自治区」として狭めているチベットの領土が以前は遥かに広かったことが直感的に理解できると述べました。そして、実際に日本で著名なチベット文化人であるペマ・ギャルポ氏はチベットのカム地方ニヤロンの出身だが、これは現在の中華人民共和国では四川省に位置づけられているし、そもそもダライラマ法王自身が、チベット北部アムド、つまり現在の中華人民共和国青海省西寧市湟中県の出身であることを見ても、現在のチベット自治区が中華人民共和国によって勝手に狭められ定義された地域にすぎないことは明らかだと述べました。
まず明から清の時代に変わり、満州族征服王朝のもとで領土は約4倍に拡大したが、その後清は海外列強との戦争に敗れ荒廃、そして辛亥革命によって中華民国ができたが、この時の実質的領土は実は明の時代とほぼ同じ地域に戻った、そしてしかも革命と建国後も約40年間の混乱期が続き政権は安定せず、蒋介石の北伐による一時的な軍閥もその後の日本の介入などによって失敗するが、もともと、この中華民国時代の領土、満州、チベット、ウイグル、モンゴルなどを除いた領土こそが、本来のシナ人の安定した本土・領土であると酒井氏は指摘しました。
そして、現在の中華人民共和国は清帝国時代の領土を取り戻すと言ってはいるが、未だに取り戻してはいない。一つはモンゴル人民共和国、一つはロシアに奪われたアムール地方であり、シナ人にあったらみなさんが教えてあげてほしい、お宅の政府では、1915年の日本の対華二十一箇条要求を承認した5月9日をいまだに国恥記念日と呼んでいるようですが、少なくともその時の領土問題は解決したはずです、今もなおロシアやモンゴルに奪われた領土があるはずですよと教えてあげてくださいと、酒井氏はユーモアを交えて日本にのみ厳しい中華人民共和国政府の姿勢を批判しました。
以上の経過を大雑把にまとめれば、明、清、中華民国、中華人民共和国の領土面積は、1:4:1:3くらいの比率になる、このような事実は、歴史の年表をきちんと見ていけば誰にでも分かることなのだと酒井氏は指摘、ウイグル、チベット、モンゴルが仮に独立すれば中華人民共和国の領土は一気に半分近くに減る、だからこそこれらの地域への弾圧や、断固として独立を認めない姿勢を中共政府は貫いているのだと述べました。
先ほどものべたようにチベット高原は、高度が高く、牧畜に適し、明らかにシナとは別個の文明、言語、宗教が存在する。シナ人の侵略によって120万人の犠牲が出たとチベット亡命政府は主張しているが、これはチベット人全人口600万とすれば5人の一人は犠牲になったことになる。人的犠牲だけではなく、仏教寺院の破壊、仏教の弾圧などは50年代から行われたが、実は中共政府はこれらの被害は文化大革命のときに主としておこったかのように宣伝している。事実は、50年代後半から60年代前半にかけて大規模な破壊はすでに起こっているのに、それを文革のせいにしたがるのは、文化大革命を原因にすれば、それはシナ人も犠牲になったわけだから、チベットの弾圧や犠牲を相対化できるという意図的な情報操作だと酒井氏は批判しました。そして、最近出版された「墓標なき草原」(岩波書店)にも触れ、こちらではモンゴル人の弾圧が詳しく書かれている、親中的な岩波ですらすでにこれらの民族弾圧を隠せなくなりつつあるのだと指摘しました。
現在中華人民共和国では、シナ人、漢民族以外の50数民族をすべて「少数民族」とひとくくりにしているが、これは非常に問題のある表現で、これらの民族の中には、チワン族が人口1,600万人、人口1,000万人前後の満州族と回族などが存在するのに、全てを「少数」と呼ぶのはおかしい、この言葉自体が、12億のシナ人以外はすべて「少数」であり取るに足らないというある種の差別表現であり、そもそも12億に比べたら日本民族だって少数になってしまうと酒井氏は述べました。
さらに、中華人民共和国はチベット侵略の正当化として、元、清などの国家を、普通の国際政治の解釈では、別の民族が支配して征服王朝をたてたのだから、これは別の国家だと考えるべきなのに、これらの異民族の征服は「中国は多民族国家であるから、これは中国国内における支配民族の交代である」とみなす特異な歴史観を1989年の段階で主張し、当時注目を集めていたチベット問題に対しその独立を否定していたと酒井氏は主張し、さらに、現在の中華人民共和国における「民族」概念は二重構造を持っていると指摘しました。
その二重構造とは、まず、中華民族という、現在の中華人民共和国領土に住む全ての民族をまとめた、いわゆる上位の民族概念と、各民族を指す下位の民族概念がある、これは極めて特異な、侵略、同化、抹殺を正当化するものであるが、酒井氏はここで日本の事例に触れ、例えば日本はほぼ単一民族国家だと言っただけえ大臣が差別的だと言って攻撃され首が飛ぶけれども、中華民族などという他の民族すべての上位にある単一民族、他民族を抹殺することを言っている中共政府はマスコミからも批判されない、これはおかしなことだと指摘しました。
その上で、この中華民族という論理では、チベット人、モンゴル人もみな中華民族となってしまう。これを「統一的多民族国家」と中共は言うが、これは歪な家族国家、専制支配的な概念であって、だからこそ彼らは、「チベット人」とは言わず「チベット族」という言葉を使う。上位概念は「中華」で、その下にある意味で「族」という、まるで部族社会、近代化以前の未開社会のようなイメージをつけた言葉で彼らを呼ぶのは間違ったことで、日本のジャーナリズムでは、きちんと、「日本人」という言葉を使うのと同じように、チベット人、ウイグル人、モンゴル人と呼び、書くべきだと酒井氏は述べました。
そして、中華人民共和国のこの様な侵略姿勢は決して共産主義によるものではなく、辛亥革命の孫文にはじまるものだと酒井氏は指摘し、孫文の民族主義思想の変遷がそれを示しており、孫文の思想は「駆除韃虜」⇒「五族共和」⇒「中華民族」の三段階にわたって変化したと指摘しました。
孫文は1906年の『中国同盟会軍政府宣言』では、革命のスローガンを「駆除韃虜、回復中華、建立民国、平均地権」と掲げ、この時点では、侵略者・征服者である満州人を追い出して、シナ人としての民族独立を回復することであり、孫文の考える「中国」の領土は明の時代を指していたと考えられるが、1911年の秋に辛亥革命と1912年の中華民国建国が時には、孫文は「漢満蒙回蔵の諸地を合して一国となし、漢満蒙回蔵の諸族を合して一人の如からんとす」「五族共和」を主張、つまり漢=シナ人、満=満州人、蒙=モンゴル人、回=ウイグル人など回教徒、蔵=チベット人の五つの民族が同一国家、さらには同一の民族として統合されていく発想に変わったと酒井氏は指摘しました。これが、清帝国の領土を継承するという基本的な侵略理念、民族独立を許さない思考の近代におけるルーツだと酒井氏は指摘、そしてさらに、1924年の有名な著作(講演録)「三民主義」の中で、孫文はさらに「本音」として、「中国民族の総数は四億、その中には、蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万交じっているだけで、外来民族の総数は一千万にすぎず、だから、四億の中国人の大多数は、すべて漢人だと言えます。おなじ血統、おなじ言語文字、おなじ宗教、おなじ風俗習慣を持つ完全な一つの民族なのであります。」という、シナ人以外の民族を全く無視し、いないも同然、同化されるべき存在とした、これこそがシナ侵略主義の思想だと酒井氏は述べました。
このような、少数民族の抹殺の思想はまさに民族浄化の思想であり、ユーゴで裁かれたミロシェヴィッチどころか、ナチスのユダヤ人抹殺の思想と変わらない、しかし、ナチスはガス室でユダヤ人を殺したが、シナ人は、大量の人口を流入させて民族の海の中で溺死させることであり、実はこれは古代の黄河文明と長江文明の時代にも起きた伝統的な思想に基づいていると酒井氏はいくつかの資料をあげて指摘しました。
そして酒井氏は、自分が「中国」という言葉を使わないのは、例えば「中国語」といったとき、それはシナ人の言語にすぎないのに、他の民族を無視することになる。中国という言葉は、シナ人でなければ中華人民共和国に住むすべての人々は意味がないという、各民族を観念的に抹殺するジェノサイドであるから私は中国、中華という言葉は使わない。民族、言語という意味で呼ぶときは、シナ人、シナ語という言葉を使うし、国家、政府としては、中華人民共和国、略して中共という言葉を使うのだと述べました。
その上で、シナという言葉が差別語だというのは戦後に造られた誤解にすぎない、簡単なことで、今でもシナという言葉は、東シナ海、南シナ海、インドシナ半島という風に平気で使われている、本当の別称や差別語なら地域の名称としても使われるはずはないと酒井氏は指摘し、言語における根拠ないタブーを否定しました。
そして、人類の歴史の進歩とは何かといわれれば、素直に考えれば民主化と民族自決・独立で、世界は概ねそのように歩んできた、幾つかの現実に民主化した国で問題が起きているとしても、長期的には、専制体制からの民主化、侵略された民族の独立というのは原則的に進歩であることに間違いはないと酒井氏は述べ、第一次世界大戦はヨーロッパ、第2次世界大戦後は南アジアや60年代のアフリカ諸国の毒質をもたらしたことは確かだが、東アジアでは今もなお民主化も民族独立も実現していないのが現実であり、かってソ連を「悪の帝国」と呼び解体したアメリカも、さらなる「極悪の帝国」というべき中華人民共和国には協調姿勢を取り、欧米も人権問題を見て見ぬふりをしている、その中で、これまでの侵略国だった中華人民共和国が、江沢民以後現在の習金平体制に至るまで「中華民族の偉大な復興」を目指しているというのは、未だ復興が完成していない、さらなる侵略を目指していると考えるべきで、事実、清帝国の領土回復を目指す姿勢にすでにロシアが警戒心を強めている。日本がこれに対し警戒と備えをしなければならないのは、全く当たり前のことだと酒井氏は述べて講演を結びました。
(三浦小太郎)
永山英樹氏と司会の古川郁絵
動画
第九回講演「中華人民共和国は侵略国家として成立した」講師 酒井信彦
http://www.youtube.com/watch?v=A_sYWbX6_8Q
※講演会告知より
酒井先生はチベットにおける中共の侵略が、日本に対して及んでいることを絶え間なく警告し、戦後日本の危機感のなさ、精神的堕落と、同時に、日本のみならず欧米の「人権」意識の欺瞞をも強く批判してこられました。今日チベットで起きていることが日本でも起こりうる危険性と、それに対する私たちの覚悟と姿勢を学ぶことができる講演会になることと思います。
講師
酒井信彦(自由チベット協議会代表 アジア自由民主連帯協議会顧問)
登壇者
永山英樹(アジア自由民主連帯協議会顧問)
司会
古川郁絵(アジア自由民主連帯協議会事務局長)
制作・協力 ラジオフリーウイグルジャパン
http://rfuj.net