私の出会った日本人妻「きみ子さん」の話(7月20日関東学習会講演要旨) : 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

※昨日(7月20日)後援された、関西在住の脱北者、榊原洋子さんの講演要旨です。
日本人妻「きみ子」さんのお話です、ぜひお読みください(三浦)


私は北朝鮮に11歳の時に行ったんですけど、片田舎に行って住んで、日本語をしゃべる機会が全然なかったので、日本に帰ってきた当時は、しゃべるどころか、聴きとる事もできずに、大変最初は苦労しましたね。でも、幼い時は日本にいたせいか、他の脱北者の人よりは、多少日本語を覚えるのも早かったと思います。でも、未だにうまくはしゃべれませんので、御聞き苦しい所もあると思いますが、どうかご勘弁ください。

私が住んでいたところは、比較的日本人妻や帰国者が多かったと思います。みんながみんなおつきあいをしていたわけではないのですけれど、道端や市場で遭ったら、あの人は帰国者だ、あの人は日本人妻だというのはだいたいわかっていました。帰国事業から40年、50年経った後でも、私たち帰国者、日本人妻と、現地で生まれ育った、私達は原住民と呼んでいましたけれど、そういう人たちの溝は埋まりませんでした。勿論月日がたてば、その人たちと触れ合いがなかったわけでも友達が出来なかったわけでもないのですが、最終的には、原住民は原住民同士、帰国者は帰国者同士しか分かり合えないというところがあって、私達は北朝鮮という国の中に、小さな日本を作って生きてきたような気がします。

帰国者や日本自妻の生活がどのような水準なのかというのは、その人が、どれだけ一生懸命に働いたかではなくて、日本からの仕送りの料によって、それは決まってしまうんです。まずは、日本から毎年沢山のお金が来る人は、それで豪勢に暮らしている人、そういう人たちは、総連の幹部とか、商工会の会員とか、そういう人たちですね。その人たちは、自分たちが望めば、平壌とか、北朝鮮の大都市に移住する恩恵を受けることもできます。そして、その次は、それほど贅沢は出来ないけれど、まあ生活は出来る程度の仕送りがある人、そしてその次には、何年かに一度は送られてくるけれど、その量も少なくて、家族や親せきが奪い合いになるという家ですね。もちろんそれだけでは生活は出来ないので、色々な貸し売りを誌ながら細々と暮らしている人たち、そして最後に、全然仕送りがない人たち。その人たちの大部分は日本人妻です。

北朝鮮に親戚も、それどころか心を許せる横のつながりもない日本人妻の人たち、しかもこの人たちには仕送りもありません、この人たちが生きていくのは本当に難しいことなのです。私が知っている日本人妻の中に、ロ・ブンジャというお姉さんがいました。北朝鮮では、日本人妻の場合、本人の名前を呼ぶのではなくて、その子供の名前の最後に、オンマ、お母さんという言葉をつけて呼ぶんですね。この人はすぐ隣のアパートに住んでいました。ロは夫の名前で、ブンジャは、きみこという本名を朝鮮読みしたものです。ここではきみ子姉さんと呼ばせていただきます。

きみ子姉さんは、朝鮮に来てからも夫がしばしば浮気をしましてね、いつも涙を流していたそうです。この浮気癖は最後まで治らなかったと言います。きみ子姉さんは、日本のなにもかもを捨てて、夫だけを信じて北朝鮮に来たわけじゃないですか。それを夫に裏切られて、彼女の気持ちはどんなにつらかったでしょうか。
その姉さんが口癖のように言っていたのが、自分自身にあきれている、家族も、兄弟も、総てを捨ててあんな男について来たこと、その時は何の悩むこともなく、総てを捨てて男について来たこと、今思えば本当にそれが情けなく、自分ながら呆れてしまう。その時は余りにもまわりが反対したから、それでかえってむきになって何も見えなくなっていたのかもしれないと、苦笑交じりに語っていました。

そのきみ子姉さんの所には、3,4年に一度くらいずつ、仕送りが来ていたんですけれども兄弟とは完全に音信不通で、その中で、小さい時から可愛がってくれた、母方の伯父さんだけが、家族みんなが反対する中、少しづつ荷物を北朝鮮に送ってくれたと聴きました。それでも7人家族でしたから、相当苦労したはずです。配給がある間はまだましでしたけれど、90年代、配給が無くなってからは、本当に苦労しました。

ある時期は、北朝鮮政府でも、日本人妻たちに一定の配慮があった時期もあったんです。配給が途絶えても、日本人妻たちにはほんのわずかでも現金が支給されたこともあったし、配給を特別にくれたことがありました。でも、自分一人暮らしではなくて、家族も一緒だから、焼け石に水のようなものでした。きみ子姉さんは日本の食べ物などを工夫して作って、それを売ったりしていたのですが、疲れて倒れた時にはいつも、このまま死んでしまいたいと思っていたそうです。でも、自殺もできません。家族の誰かが自殺したら、それは体制に対する反抗だとみなされて、その家族には反逆者の家族だとみなされてしまうのですから。

きみ子姉さんは、生きていくために本当に一生懸命でした。毎日すこしずつ食べ物を作っては、風が吹く日にも、雪が降る日にも、一日も欠かさず、帰国者の家を回って売っていました。冬は寒いけれどまだいいのです。夏、あの国では電気もガスもちゃんと来ないですし、お金持ちはプロパンガスを使いますが、姉さんの家にはそんな余裕はないから、火を焚いて、ひどく暑くて苦しい中で料理を作っていました。でも、実はどんなときでも、その町の党幹部のいる一号地区というところでは必ず電気が来ているんです。ですから、町の人は、どうしても必要なときはそこから電線を使って電気を盗むんですよ。でも、それが分かれば、その家の電化製品は没収されるし、罰金を取られる。その時はわいろを少し使って見逃してもらうしかないのです。検閲隊の人たちもそうやって自分の懐に入れた方がいいですからね。でも、それで何日間からの儲けが全て失ってしまうこともあって、その時には本当に泣き叫びたくなる時もあったようです。きみ子ねえさんはがりがりに痩せて、汗をそれでも滝のように流して働いていたのを見ましたが、本当にかわいそうだと思っても、所詮私はどうすることもできませんでした。

その中でも、少しの楽しみというのはありましたね。帰国者や日本人妻たちが集まって、一時の楽しい集いを開くんです。日本の食べ物を作って、日本の踊りを踊りながら、皆で過ごすんですが、その時だけは、辛い毎日もいろいろな恨みもすべて忘れることが出来ました。その時の事だけは、私は今も楽しい思い出です。

でも、その一時のくつろぎというのも、仕送りの全くない日本人妻には苦痛だったということを後で知りました。日本の仕送りが来ている帰国者は、この人たちにあまり負担がかからないように、少し多めに出すとか気を使うんですけれど、その気配り自体が負担になると言っていました。きみ子姉さんがあるとき、目に涙を浮かべて、こういう集まりは楽しいし参加したいんだけれども、皆に申し訳ない、と言っていました。私は、姉さん、そんなこと気にしないで、帰国者も皆一緒だよ、私の家もいつ仕送りが途絶えるかわからないものといったんですけれど、きみ子さんはこういうことがとても気になる人だったんですね。それからも何度も私に、申し訳ないなあ、申し訳ないなあと言っていました。

北朝鮮の制作というのは御存知のようにくるくる変わりますけれど、先ほども申しましたように、ある時期は日本人妻に多少の配慮があったり、日本人妻の子供は好きな学校に行かせてあげると言ったこともあったんです。それできみ子姉さんの子供は経済大学に行けましたが、それは長続きはしませんでした。幹部とかお金持ちの子供が行く学校なんです。そこに、貧しい家の子供が付き合えるわけがないんですよ。ある日、用事があって早朝に私が外に出た時、アパートの前できみ子姉さんとばったり会ったんです。そして、姉さん、こんなに早くどこに行ってきたんですか、と聴いたら、「ああ、ちょっとね」とだけ姉さんは答えて家に入って行ったんです。それから何か月かたったら、地方新聞にでかでかと記事が載っているではありませんか。「日本人妻たちが、金日成将軍様の肖像画を清めに、雨が降っても雪が降っても一日も欠かさず通っている、何の心配もなく北朝鮮で暮らすことが出来る当の配慮に感謝してこうして清めているのだ」だいたいこんな意味の見出しだったと思います。

「ああ、こんなことをしていたのか」と私は思いました。それから間もなく、皆がきみ子姉さんとあった時に、「えらいねえ姉さん、こんなことまで考えたの」と言いました。親しい中ではありましたけれど、正直私達は、心のなかではその時姉さんを笑っていたんです。「物好きもいいことだ、そんな肖像画なんて、絵を外に掲げているんだから汚れるのも当たり前なのに、それを磨いて、その絵の周りを毎日掃除して、何をしているのか」みたいな目をしていたんです。その時だけです、あのおとなしかったきみ子ねえさんが「貴方たち、私を馬鹿にしているんでしょう、からかっているんでしょう、あんなことまでしているのかと思って」と怒鳴ったんです。「私がやりたくてやっているんじゃないよ。本当に拷問だよ、こんなことさせられて。朝早くから起こされて」。この時私達は、ああ、私達はひどいことをしてしまったと悔やんだものです。

私が脱北する少し前に、末っ子の息子さんが、日本からちょくちょく仕送りが来る家の娘さんと結婚しました。きみ子姉さんはそのことを、あの子だけはこれからおなかをすかさないで済むだろうと、とても喜んでいました。このきみ子姉さんも、70をとうに過ぎているはずです。今どうしているのか、無事を祈るばかりです。もう私には何をしてあげることもできませんから。

他にも、私がある電車の駅で偶然親しくなった日本人妻の家に招かれて行ったことがあります。そこでお食事をごちそうになったのですが、私はその食卓を観て正直驚きました。その家には、多少仕送りがあると聞いていたので、貧しいとはいえなんとか暮らしていると思ったら、私たち帰国者から見ても、その食卓にあったのは、草を煮たような青いおかゆと、漬物だけでした。でも、その奥さんはもうこの食事になれてしまっているのか、このおかゆの中には、これでも、トウモロコシの粉が三さじは入っているのよ、と言いながら、おいしそうに食べていました。

きみ子さんのことや、日本では考えられもしない食べ物をそれでもおいしそうに食べていたこの日本人妻のことを思うと、私は政治のことはわかりませんが、この日朝協議が、何とかこの人たちを救うことにつながってほしいと祈っています(終)


私の出会った日本人妻「きみ子さん」の話(7月20日関東学習会講演要旨) : 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
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