The Huffington Post | 執筆者: 손미나, 원성윤
投稿日: 2015年03月09日 13時58分 JST 更新: 2015年03月09日 13時58分 JST
シン・ドンヒョク氏は、北朝鮮の价川(ケチョン)政治犯収容所を脱出したことで世界的に知られる脱北者の人権活動家だ。本名はシン・イングンだが、脱北を手伝った記者の名前を取ってシン・ドンヒョクに変えた。シン氏の証言を記録した自伝「北朝鮮 14号管理所からの脱出」(2012年、日本語版刊)は27カ国で翻訳・出版され、北朝鮮の政治犯収容所の実情を知らせ、国際社会の関心を呼び起こし、国連で北朝鮮人権決議案を採択させるのに決定的な証言となった。
しかし2014年9月24日、北朝鮮の国連代表部は、北朝鮮の人権報告書や、各国の主張に反論した。「シン・ドンヒョクの証言は韓国の工作による捏造であり、全く事実ではない」と主張していた。また、北朝鮮が作成した映像でも、シン氏は不法出入国と性犯罪などを犯した犯罪者として描写された。
その後シン氏は証言の一部を翻し、国際社会に波紋が広がっている。
1月17日付のワシントン・ポスト紙によると、シン氏は自伝の共著者に対し「6歳のころ、家族とともに14号管理所から、大同江を渡って18号管理所に移された。母と兄を密告したのは18号管理所だ」と述べた。また、何度も体を焼かれるなどの拷問を受けたのは、13歳のときではなく、20歳のときだったと認めたという。
(脱北者シン・ドンヒョク氏、自身の証言に一部誤り認めるより 2015/01/19 17:22)
2月3日、スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会でも、熾烈な攻防が繰り広げられた。北朝鮮のリ・スヨン外相は、調査の過程でシン氏が証言を覆したことについて「基礎となった重要な証言が虚偽であることが判明し、国連人権理事会と総会の反共和国人権決議の虚偽性が明白に証明された」として、北朝鮮人権決議案自体を否定した。中央日報によるとリ外相は「共和国の敵対勢力が関心を持つのは、罪を犯して逃走した脱北者という人間のクズだけだ」とシン氏を激しく非難した。
これに対して、国内外のメディアのインタビューに応じず、沈黙を守っていたシン氏が、2月26日にハフィントンポスト韓国版のインタビューに応じた。シン氏は、ソウル・梨泰院のカフェで約3時間30分にわたるインタビューで「母と兄が自分の密告で処刑された事実を明らかにしたくなかった」「拷問の事実のいくつかは隠したかった」「北に残っている父を守りたかった」と思ったため、事実でないことを交えて証言したと明らかにした。しかし「7〜8年後に私の人生がこうなるとわかっていたら、最初からすべて話していた」と後悔した。
一方でシン氏は「収容所での体験談はすべて真実であり、私の最終目標は、国連調査団を率いて、私が苦しんだ14号、18号収容所を訪問し、実態を全部明らかにすることだ」と述べ、北朝鮮が自分を非難する動画を公開したことが、ハフィントンポスト韓国版とのインタビューに応じることを決めた理由だと明らかにした。
今回のインタビューは、すべてシン氏の証言に基づいている。シン氏が直接明らかにした北朝鮮脱出の過程と人権運動、そして証言を覆すに至るまでの経緯を一問一答でまとめた。(シン氏のソーシャルメディアの投稿も追加した)
−−2月3日に開かれた国連人権理事会の話をしたい。北朝鮮のリ・スヨン外相があなたに激しい非難を浴びせた。 「脱北者はクズ」という発言も出た。
北朝鮮への私の反論は簡単だ。私は国連調査団を率いて、私が生まれた収容所を直接案内したい。これで私はすべて解放される。言葉だけで「収容所はない」と繰り返す私の父を無理やりテレビに出演させずに、本当に北朝鮮が正々堂々としているのであれば、私と調査団を北朝鮮に受け入れなくてはならない。はばかることなく言えば、本物の人間のクズは北朝鮮の独裁者ではないか。幼い私を脅迫して、母と兄を殺させた。独裁者の叔父までためらうことなく処刑するのが北朝鮮だが、人間のクズなどとよく言えたものだ。
−−正確な脱北時期はいつなのか。
2005年だ。収容所を計3回脱出しようとして2回失敗した。3回目で成功して韓国に来た。
−−証言を覆したことで議論を呼んでいる。具体的には「14号収容所」の部分、拷問を受けた年齢が証言と違っているという部分だ。
最近の議論については私も(問題があると)認める。私の話を、私自身が否定したからだ。20歳で受けた拷問を、なぜ13歳で受けたと言ったのかという部分だけを追及するのであれば、言うべき言葉もない。しかし私が話を変えたというより、最初はあえて話さなかったことがあったという方が正しい。人間としてとても話しにくい事情があったからだ。将来、私の人生がこうなるとわかっていれば、苦しくても最初からすべてを明らかにしていただろう。
今まで私がしてきた話は、私が直接目で見て体験したものだ。14号収容所で服を脱がされて逆さ吊りにされ、鎖の痕はすべて私の体に残っている。爪を剥がされて指の関節が飛び、足かせをはめられた痕が証明している。尻から背中まで火をつけられ、やけどの痕がはっきり残っている。熱くて叫んで血が出たとき、その後の私の悲鳴は、今この場でも完璧に描写できる。しかしむしろ、こういうことには耐えられた。もっと隠したかったのは、他のことだ。
−−何を隠したかったのか。
母と兄が私の密告で処刑されたという事実だ。
−−なぜ最初から事実通り話をしなかったのか。
恥ずかしかった。どこの誰が臆面もなくそんな話をできるだろう。北朝鮮では思想教育を徹底的に受けるため、家族同士でも密告することになっている。14歳の時だった。母と兄が脱走したと密告したが、看守が次の日に私を呼び出して、机の上に一枚の紙を置いた。自分たちが準備した紙に拇印を押せば、何でも望み通りにしてやると言われた。母と兄が人を殺したという内容だったが、その深刻さを全く認識しないまま拇印を押した。ところが翌日から、母と兄がどうやって殺人をしたのかと執拗に尋ねられた。その1週間後にわかったことは、その看守が集落で盗みを働いて1人の女性を殴り殺し、私たちの家族に罪をなすりつけたということだった。別の人物から聞いたが、生まれつき囚人の身分の私は、看守の罪を明らかにするなど想像もつかなかった。
公開処刑の当日、私と父は、処刑場に連れて行かれて最前列に座らされた。母は栄養失調なのか拷問を受けたからか、体がパンパンに腫れていた。後で聞いたことだが、自分の分の食事を息子に食べさせてほしいと看守に頼んでいたので、飢えていたという。母が最後の瞬間、連行されるところで私を見つめたが、目を合わせることができなかった。母は絞首刑で、兄は銃殺でこの世を去った。
どうして母を密告できるのかと聞かれるが、環境がそうさせているのだ。収容所ではそれが正しい行動だ。そこでは私の父も母もただの囚人だ。言葉では母と呼ぶが、一緒に過ごす時間がなかった。家族がどんなものか全く知らずに育った。収容所で生まれた私を歓迎してくれる人は一人もいなかった。そこでは誰もが同じ囚人だ。感情などは存在しない。
−−いくら北朝鮮でも、目の前で家族を公開処刑することができるのか。
それが北朝鮮だ。公開処刑をするときは、できるだけ多くの人を集めようとする。収容者への効果がより大きいからだ。最近、ダーイシュ(イスラム国)の公開処刑の場面を見て「おぞましい」と言う人が多いが、目に見えるから恐ろしいと感じるのだ。北朝鮮で起きることは目に見えないだけで、もっと恐ろしい。
−−なぜ証言を覆したのか。
北朝鮮が、事実と異なる内容の動画を公開した。北で苦難に耐える父を登場させて、嘘を言わせたことに憤慨した。母と兄が殺人罪で処刑され、私は心おきなく勉学に励んだとか、挙げ句の果てに私を性犯罪者だと言った。2014年9月以前まで、私はあるがままの収容所のことだけを話していたが、動画が公開されてから「北朝鮮は本当に悪い奴だ」と、思わず悪口が出た。何も隠してはいけないと考えた。私がすべての真実を最初から明らかにできなかった、最も重要な理由は家族だった。
−−北朝鮮の収容所に暮らして、脱出しようとなぜ思うに至ったのか。外の世界について何か聞いたからか。
最初に収容所を脱出するとき、外の世界について何も聞いていなかった。最初に脱出したときは捕まって戻されたが、脱出して見たこと、感じたことがあったから、もう収容所で暮らすことが全てではないと思うようになった。これはおそらく、私の体が感じる「自由」というものだろうと。学校教育では、読み書きと算術以外は教えてくれない。14号では、それすらもろくに教えてくれない。
−−あなたは北朝鮮で2回脱出した。また、母と兄が処刑され、監視もたくさん受けただろう。北朝鮮はなぜあなたを生かしておくのか。この部分について強く疑問を呈する人もいる。
収容所から脱出したが捕えられ、戻ってきて銃殺される人もたくさん目撃した。私の場合は運がよかったのか、あるいは私があまりに愚かだったから何度も脱出しようとしたのかは分からない。ところが、北朝鮮は今とても後悔しているだろう。あの時、初めて脱出した時に殺しておけばよかったと。
−−14号収容所からではなく、18号収容所から脱出したと証言を翻して議論になっている。2つの収容所は大きく異なると言われているからだ。
そうではない。誤解されているが、少し複雑だが説明しよう。私は今まで証言した通り、14号収容所で生まれた。その当時あったのは14号収容所だけで、18号収容所はなかった。その後、1985年頃に、14号収容所に住んでいた収容者のうち、一部を除いて全員、川の向こうへ移住しろという命令が出た。どのような基準だったのかは分からないが、私たちの家族は、14号に残留する中に含まれていた。収容者のほとんどが夜間に橋を渡って移住した。その日から、川の対岸の収容所が14号、元の14号だった所は、18号収容所と名前が変わった。そして、2回目の脱出を試みた後、再度捕まって戻された所が14号収容所なので、証言の内容が間違っているわけではない。 さらに14号も18号も政治犯収容所で、決して14号での生活が18号よりも過酷というわけではない。
シン氏が、かつて住んでいた14、18号収容所の位置を、Google Earthを使って説明している。大同江をはさんで北に14号、南に18号収容所があり、シン氏は、自分が住んでいた収容所の規模、監視やぐらの位置、鉄条網、囚人たちの生活範囲などを詳細に説明した。
−−収容所に人がどれだけ住んでいたのか。
18号収容所だけで、囚人と看守を含めて2万5千人いる。
−−14号と18号の生活の違いは?
14号収容所の方が生きるのが大変で、18号は楽だと言われるが、私にとっては全く同じだった。むしろ18号収容所の生活の方が苦しかった。両方とも、鉄条網が張り巡らされていて、看守が監視やぐらから収容者の労働を監視している。囚人たちが農産物を生産して自給自足する14号収容所では、農業がしやすい環境だったが、18号は農業がしにくかったので、18号収容所の収容者が大同江を泳いで渡って14号に行くこともあった。ところが、泳ぐ力がないので、水に落ちて死ぬことも多かった。本当はこんな話はしたくないが…(ここでシン氏は唯一、しばらくためらった。苦痛を伴う記憶を引き出しているからか、奥歯を数回食いしばった)。自分の大便まで食べた。草しか食べていないから、臭いがしない大便を。18号収容所では人を食べたという話も聞いた。18号の収容者はむしろ、14号収容所の収容者を羨ましがった。
シン・ドンヒョク氏の主張によると、北朝鮮の収容所を最初に脱出したのは1999年、父が書いた手紙を持って、生まれて初めて叔母の家を目指して逃げた。しかし、苦難の末に到着するや否や、待ち伏せしていた警察に捕まった。鉄条網を越えて山を越え、2週間逃亡していたが、3日後に再び、数多の暴行と苛酷な行為が待つ18号収容所に戻された。
戻ってからは収容所の農場、炭鉱など、言われるがままに労役に従事した。収容所での食事は、トウモロコシ、キャベツ、塩で作ったお粥と、時々獲れるネズミや昆虫などが全てだった。体調が悪く労役ができない場合は、それすらも半分に減らされた。1年が過ぎ、シン氏は衰弱して動けなくなった。そして、収容者の給食を調理する仕事を補助することになった。
収容所ではいつも、朝食(ここではトウモロコシをいう)を、前日の夜に作って床に広げておく。茹でたトウモロコシが夜の間に冷めてかさが増え、量が多く見えるからだ。ある日、調理担当者がシン氏を一人残してどこかへ行った。食事を見た瞬間、理性を失った。夢中で目の前の食事を食べた。食べ終えたとき「給食を食べられない人が出て、すぐに自分のやったことがばれて、罰を受ける」と、目の前が真っ暗になった。だから逃げた。
シン氏はその時期を2000年11月(推定)と記憶している。靴下に食事を入れた。豚に餌をやるという口実で、餌のバケツを持っていった。収容者は看守に対し、5分ごとに声を張り上げて自分の存在を知らせなければならない。「囚人シン・イングン、豚の餌を与えています」と。やがて、監視やぐらにいた看守が背を向けた後、反対側に歩いていくのを見た。何も考えず、バケツを捨てていきなり逃げた。最初に脱出した時と同じルートで。
−−2回目の脱出について詳細に説明してほしい。どうやって中国に脱出したのか。
寒い冬だった。迷ったが、前回みたいに捕まらないようにと考えた。村に紛れ込んで北に向かい、国境を越えて中国に行かなければならないと考えた。2カ月で国境を渡った。中国に行って働いていたが、4月に中国の公安に逮捕された。働かせてくれた家の弟が私を密告した。夜明けに農作業する時期だったので、畑に出て戻ってくると、公安がいきなり私を縛って足枷をはめて車に乗せた。警察署で「収容所から来た」と言ったら、北朝鮮に送還すると言われた。目の前が真っ暗になった。朝鮮語を話せる中国の刑事がいたが、私に「もう一回逃げて来い。その時は助けてやる」と言った。「北朝鮮に行ってから食べろ」と、パンやバナナをいっぱい買ってくれて、涙があふれた。
シン氏によると、脱北者を収容する中朝国境の都市・図們の辺境拘留所にしばらく勾留された。北朝鮮の公安捜査組織、秘密警察にあたる国家安全保衛部の人間が訪ねてきた。「この野郎、逃亡者シン・イングンめ!(頬を激しく叩いた後)中国でいい暮らしをしていたのか?」。北朝鮮に移送され、東北部の咸鏡北道ウォンソン郡にあるチャンピョン里の保衛部の収容所で、再び拷問が始まった。狭苦しい部屋に男女の囚人が一緒に入れられていた。その後、再び18号収容所に戻された。2回目の脱出失敗だった。
帰ってきたシン氏は、2002年12月頃に、父と再開する。トウモロコシを煮た粥を持ってきた父は、面会室に入ってシン氏を平手打ちした。そして、2人は涙を流したという。「この馬鹿野郎、なぜ中国に行って捕まるんだ。逃げて…永遠に逃げて捕まらないようにしないと」。重いすすり泣きの時間が過ぎて、父は言った。「お前、明日14号収容所に移送されるぞ」。それが父を見た最後だったという。
14号収容所での生活が始まった。 火で焼かれ、爪を抜かれ、気を失う過酷な拷問が連日繰り返された。そんなある日、2004年12月に中国に逃げて捕まったパク氏と出会う。パク氏はシン・ドンヒョク氏に、ある意味では予想された話をした。「君は2カ月後に処刑されると聞いた。しかし、私も殺されるらしい。一緒に逃げよう」
すぐに3回目の脱出を敢行することにした。2005年1月2日、シン氏とパク氏は、収容所の鉄条網近くでの作業に一緒に動員された。看守たちのパトロール間隔が長いことに気づいた2人は、看守が遠くへ行くのを待って脱出した。しかしパク氏は、高圧電流が流れる鉄条網に触れてその場で即死、シン氏は抜け出した。収容所を脱出したシン氏は、近所の農家に隠れて古い軍服に着替えた。兵士に偽装して、必要な食糧を盗みながら、中国との国境地帯に近づいた。タバコと盗んだ食品で国境警備員を買収して、豆満江を渡って北朝鮮を脱出することに成功した。
中国を放浪しながら働いていたシン氏は、上海の飲食店で一人の記者に偶然出会う。シン氏の脱北経験の貴重さをわかったその記者は、韓国大使館に保護を求め、シン氏はすぐに韓国に送られた。
−−中国への脱出も簡単ではなかったのではないか。
中国へ行くために、私は気をつけていた。人を避け、危険な場所には行かなかった。私が脱出したこともすでに発覚していて、私を捕まえようとしていただろうから。私の経験から、脱出者はちょっと気をつければ収容所に再び捕らえられることはそうそうないと思う。脱出者を捕まえる連中も、車で動き回るわけでもなく、列車に乗ったり、トラックに便乗したりしなければならないからだ。特に脱出者が行きそうな所を予想して先回りし、いちいち顔を確認しなければならないが、それは簡単なことではない。
−−映画「ザ・インタビュー」の監督は、あなたの自伝を読んでインスピレーションが湧いたと言っていたが、どう思うか?
ただのコメディー映画だ。私の話とは何の関係もない。北朝鮮が何もしなければ、ただの三流映画で終わっていたが、報復すると大騒ぎしたから、映画が北朝鮮の実情を知らせる大きな役割を果たしたのだ。国連でも北朝鮮の外交官たちの姿は本当に理解できない。全世界の外交官の前で、映画「ザ·インタビュー」に報復すると言い、「最高尊厳」だけを重視する。中国の外交官からも理解されない。人権決議案の採択も、その影響が大きかった。
−−北朝鮮の人権問題に、一般の関心は高いとは言えない。
あまりにも悲しい事実だ。韓国人ももう、慣れてしまったようだ。今回のことが報じられて、ニュースサイトでは私に「死んでしまえ」というコメントもついていた。「北朝鮮で言え。声高に国連で言うな」という非難も受ける。ところが実際、韓国で独裁者を賛美する勢力がいることこそが恐ろしい。私たち自身も、私たちが受けた苦痛を変えようと努力しなければいけないが、国際社会の支援があってこそ可能だ。これほど無関心で、独裁政権の被害者をむしろ非難する雰囲気…不公平ではないか? あまりにも恐ろしい。
−−テレビに出演している脱北者が、話を誇張しているという指摘もある。
金を払って(煽るから)誇張になる。脱北者がテレビに利用されている。人気集めのために脱北者を引き込んだのはテレビだ。脱北者を非難してはならない。
−−北朝鮮の人権運動をしたことを後悔しているか。
この生活自体、望んだものではなかった。飛行機に乗って国連に行って、苦痛の体験を話さければならない生活が、楽しいとは言えない。私は今でも「なぜ私は人権運動に足を踏み入れたのか。山の中で暮らしていればよかったのに」と後悔している。痛みを伴う記憶を繰り返し証言することがいかに難しいことか、分からないだろう。 何かを言うと、その日の夢に出てくる。忘れて生きるべき過去の悪夢を、何度も反芻しているのだ。
−−今後も、北朝鮮の人権運動を続けるつもりなのか。
私ができることは、北朝鮮を苦しめることだ。そして北朝鮮を倒すことだ。北朝鮮の独裁政権を終わらせることが私の使命だ。私は今まで、こんな話をしたことがない。北朝鮮を倒し、私の家族の名誉を回復し、収容所をなくすことが私の目標だ。北朝鮮に公開要求した。私が住んでいたところはよく分かるから、行って指で示せば証拠となる。私はとてもよく知っている。調査団を受け入れ、私の父に会って、なぜ収容所に捕らえられたのか明らかにしなければならない。そのために国連調査団を率いて収容所に入る。自分たちで不可能だと思っていると不可能に思えてしまうが、そんなことはない。
シン・ドンヒョク氏はインタビューで、終始淡々とした口調で話した。拷問を振り返る話でも、表情は歪まなかった。取材陣は、拷問の過程で受けた傷を写真に撮りたいと求めたが、拒否した。「シャワーのときの自分が、最も嫌な自分の姿」と、自分の体の恐ろしい記憶を思い浮かべたくないからだという。
しかし、インタビューの後、シン氏は考えを変えた。自身の公式Facebookページに写真をアップした。「私がここまでするしかない理由は、独裁者がどうやって人間に最も恐ろしい痛みを与えながら快楽を得ているのか、知らせる方法がこれしかないからだ」とし「私の拷問の傷を全部アップするつもりだ」と述べた。
シン氏が自分の体にある拷問の痕跡として公開した写真。シン氏によると、足首に鎖でつながれたまま天井に逆さに吊り下げられた、火で焼かれた跡だという。
シン氏は爪を全部はがされる拷問を受けたと主張する。この傷は、爪を抜く機械に押しつぶされた痕、爪がはがされて変形した痕、拷問で指が抜けた痕だという。
(翻訳:吉野太一郎)
この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。
※写真はHuffington Postのサイトでご覧ください。
「北朝鮮・死の強制収容所からの脱出、嘘ではない」脱北者シン・ドンヒョク氏インタビュー : The Huffington Post Japan
http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/07/shin-dong-hyuk-interview-2015_n_6822830.html