楊海英氏講演会報告「日本刀はなぜチベットに舞ったか」 : 南モンゴル自由民主運動基金

三浦小太郎(評論家)

興安学校が生み出したモンゴル騎馬軍団

 12月9日、東京の会議室にて、楊海英静岡大学教授をお迎えし「日本刀はなぜチベットに舞ったか」と題する『チベットに舞う日本刀』樫山純三賞受賞学術シンポジウムが開催された。この講演会の内容は多くの方々に知っていただきたい貴重なものだったのだが、残念ながら参加者が少なかったため、ぜひ、ここで紹介させていただきたい。

楊海英氏は、まず『チベットに舞う日本刀』(文藝春秋)が樫山純三賞を受賞したことについて各位に御礼を述べたのち、日本が南モンゴルに建設した興安軍学校について、その特殊性を述べることから講演を開始した。日本は台湾や朝鮮半島も日本として統治し、学校を建てたけれども、そこでは軍学校を建てることはなかった。満州国においては確かに軍学校があったが、それは五族協和の軍学校であり、ある一つの民族のために軍学校を建てたのは南モンゴルにおいてだけだったのである。

そして、この軍学校での教育を受けたモンゴル人たちが、戦後チベットに戦いに行ったという現代史の壮大なドラマが起きたこと、そして同時に、モンゴル人の精神の基盤に在るのはチベット仏教であったことに触れ、複雑な歴史のドラマを語り始めた。

楊氏によれば、一九五〇年代にはまだモンゴルにチベット仏教の寺院が点在し、特にチベットの仏教女神ターラー神が民衆の信仰を集めていた。そして、特に青海省はチベット人とモンゴル人の交流が深く、この地を通じて仏教が伝わったこともあり、地名がモンゴル語、チベット語のものがほとんどなのだが、最近、その名が中国語に変えられていることを指摘し、これこそ、植民地主義そのものであると批判した。六〇年代の文革の時期にこのチベット仏教寺院はすべて破壊されつくしてしまう。

 楊氏は、仏教伝来以後、モンゴル人のあいだにも活仏の指導者が多数あらわれ、有名なのがモンゴルのジェプツンダンバ・ホトクトであり、この活仏の第1世と第2世はチンギス・ハーンの直系子孫の家庭から生まれている。モンゴルが一九一一年に清朝から独立しようとしたときも、この方も大ハーンを神聖なハーンとしていただき、国家の基本にチベット仏教を抱こうとした歴史を指摘した。この独立と近代化を目指す革命は、アジアでは日本に次いで2番目に古いものであり、トルコの青年トルコ党の活動とほぼ同時期にあたる。成功はしなかったにせよ、モンゴルの近代国家建国の意志はアジアでも早い段階で花開いていたのだ。

近代史における日本とモンゴルの最初の出会いは日露戦争である。「坂の上の雲」などでも有名な秋山好古の騎兵部隊の先鋒を務めた永沼挺身隊を、さらに先導していたのが、モンゴル人のバボージャブの部隊だった事を楊氏は指摘する。モンゴル人の最大の目標は清朝、その後の中国からの独立であり、その為に有効であるならば、日本であれロシアであれどこでも利用しようと考えていた、だからこそバボージャブも、その息子ジョンジュルジャブも日本軍と協力して満蒙独立運動を行おうとしたが、結局バボージャブ将軍は中途で日本軍に見捨てられ戦死、その後満州国建国の差異、南モンゴルは独立ではなく、満州国での五族協和という形に留まってしまったことを指摘した。日本が近現代のアジアに残した民族独立と植民地解放の歴史を誇りに思うことはもちろん間違いではない。しかし、同時にアジア諸民族の側からの日本への評価だけではなく、自分たちが利用されたのではないかという批判的な視点を私たちは見過ごしてはならないだろう。

しかし、楊氏は一九三四に満州国で、日本軍主導の興安陸軍軍官学校が建設(その後名前が変わって陸軍興安学校と呼ばれる)され、またシリンゴルの、徳王のモンゴル自治邦にも蒙古軍幼年学校の意義をいずれも高く評価する。二校ともモンゴル人に非常に人気が高く、何千人の中から数十人を選ぶというぐらいのエリートを集めた軍官学校であり、彼らは日本式の合理的・近代化された教育を受け、強力な騎馬軍団が生み出されたのだ。同時に陸軍興安学校では、仏教を大事にする教育も行われ、軍事教育とともに学生の精神を鍛え高めることが目指された。

 その教育のありさまとして、楊氏は、興安軍学校における食前風景の写真をまずスライドで示した。そこでは生徒たちが、お祈りして「いただきます」と言っているシーンが映っており、楊氏は、これは仏教の思想であり、米1粒、水1滴、すべて神様、仏様から与えられたものなのであるという教育を生徒たちは受けていたのだ。

 また、満州国の留学生は千葉県の習志野にて教育を受けていたが教育を受け、そこにも、漢民族とともにモンゴルの留学生が訪れている。彼らはモンゴルに戻ってからモンゴル軍部隊の指導者や、興安学校の教官になったのだった。

そして、一九四五年八月の日本敗戦以後、日本軍は満州国と徳王のモンゴル自治邦から撤退し、その満州国のシステムをそのまま引き継ぐ形で東モンゴル人民自治政府が成立する。その運営には日本に教育を受けたモンゴル人たちが行った。中国人(漢民族)は彼らを「日本刀を吊るしたやつら」と表現したけれども、実際には中国の人民解放軍よりも、彼らモンゴル人は遥かに優れていた。公安学校の教育を受けたモンゴル人は、日本語、モンゴル語、中国語、さらに人によってはロシア語もできる。近代教育を受けているので非常に洗練された言動ができ、また道徳性も高かった。しかし同時に、彼らは共産主義、ソ連の影響を次第に受けていく。当時の外モンゴル、モンゴル人民共和国がソ連の援助のもと、形式的なものであれ独立を果たしていたこと、ソ連が民族自決の連邦制を宣伝し、中国共産党もそれを支持しているように偽装していたことも大きかった。今でもこの時期に南モンゴルで何が起きたのか、独立の好機をなぜみすみすと逃してしまったかの詳細は明らかではないが、一九四九年に中華人民共和国が成立すると人民解放軍にモンゴル騎馬軍団は編入されてしまう。しかも、このモンゴル騎馬軍団は、チベット侵略の尖兵として利用されることになる。

チベット侵略の尖兵として

楊氏は当時の中国のプロパガンダの一例として、チベットは中世のヨーロッパよりも暗黒な世界であり、農民は農奴として僧侶階級に支配され、農奴たちは祖国中華人民共和国の解放を求めているという宣伝がなされていたこと、しかもチベット飲み会の残虐行為の象徴として、仏教寺院を建設するときには、地鎮祭で生きたまま子供を埋めるのだという嘘が広められていたことを紹介した。

その上で、中国の侵略や圧迫に対し、チベット人の抵抗は1956年頃からはじまっていたが、中国はチベットを弾圧するときに使った言葉は「チベットの平和解放」だった。このように、非常に美しい言葉を使ってその影で暴力的な侵略を行うのが中国のやり方だと楊氏は指摘する。考えてみれば、平和的な手段で「解放」ができるはずはない。実際には暴力と虐殺による「解放」に決まっているのであり、「日中友好」という美しい言葉に対しても、日本はこのような歴史を忘れてはならないと楊氏は警告する。

 中国は、1956年からチベット人の有力者たちを、民主改革委員会や研修会といった名目で集め、カム、アムド地方の遊牧民と彼らの指導者を隔離してしまい、その結果遊牧民たちは、家畜を連れて各自ばらばらに放牧を始める。それを中国は不穏な動きだ、叛乱だと決めつけ、軍隊を派遣して弾圧を加え、チベット人が怒って立ち上がったのを弾圧するために送り込まれたのが、モンゴル騎兵であった。当時のモンゴル騎兵は、チベットの標高5000mものところを行軍しており、当時、5000mといったら、中国の歩兵はもちろん、ソ連から支給された戦闘機も飛べない高さだった。だからこそ、モンゴル騎兵が送り込まれ、チベット人と闘わされたのである。

楊氏はここで、モンゴル騎兵が、一人で二,三の馬を引いて行軍している写真をスライドで示し、これは一三世紀からの伝統だと述べた。モンゴル軍は昼夜を問わず何日間も走れる。それは、乗っている馬が疲れたら、馬の背中を伝わって次の馬に飛び乗って走り続けることができるからで、その行軍のスピードがチンギス・ハーンの大帝国を作らせた。このようにチベットに侵攻したモンゴル騎兵は、チベット人騎兵部隊と戦う。チベット側は普通の牧畜民であり、モンゴル側は訓練を受けたプロフェッショナルな近代的軍隊なので、モンゴル軍は圧倒的に勝利したのだった。

 チベットに派遣されたモンゴル騎兵軍団は青海省に入り、青海省のモンゴル人が彼らを案内するという形で進軍する。青海省のモンゴル人は、チベット人と同じように現地の地理に詳しく、歴史的に草原をめぐってチベット人との間に紛争も生じていたので、この対立を中国に見事に利用されてしまったのだった。高地での進軍で、モンゴルから連れて行った馬は高山病で斃れ、チベット人や、青海省のモンゴル人の馬が調達された。

 しかし、この時モンゴル軍を案内した老人たちは、楊氏の取材に答え、わが内モンゴルの軍隊の行進は日本軍のように見事だったと答えている。もちろん彼らは日本軍の行進を見たわけではないが、そう誇りを込めて語っているのだ。モンゴル軍は非常に知的で、洗練された振る舞いをしていた、軍服とブーツで日本刀が輝いていたという。

そして、作戦会議になると日本語を話し。青海省のモンゴル人の前でもモンゴル語は話さない。この戦場では、中国人はチベット捕虜を虐殺し、抵抗者でもないチベットの村人を残酷に殺していたので、モンゴル軍が抗議すると、その抗議した人はすぐさま前線から後方に回されてしまった。そして兵士たちは殺されたチベット人を見て泣いていたという証言もあることを楊氏は紹介し、モンゴル兵たちの苦悩を伝える。

 当時を知るチベット側の証言として、夜になるとモンゴル軍は読経をしていたという。それは女神ターラー讃歌だった。日本の士官学校で学んだ近代化したモンゴル軍が、夜になるとターラー讃歌を読んでいた。これを楊氏はいかにもモンゴル人らしい行為だと述べた。チベット人側から見ればある意味侵略者なのに、夜になるとターラー讃歌を読んでいる。ターラー讃歌を読んでいるのに近代化をしている。近代化にも憧れるが、チベット仏教の侵攻も伝統として守る。モンゴル人にとって、とってはチベット仏教は古い因習ではなく、今も大切な豊かな精神世界なのであり、近代化と伝統を守ることは決して矛盾しないはずだと楊氏は指摘する。中国は、チベット仏教を残酷な陋習、封建制の象徴、ヨーロッパの中世よりも暗黒だと言って、あたかも近代化とは無縁のような言い方を今でもしているが、仏教に対する信仰というのは人間の精神世界を豊かにし道徳心を育む者であり、近代化の阻害になるということはあり得ないのだ。

 そして、モンゴル騎兵は絶対に捕虜は殺さない。しかし、中国軍はチベット人を捕虜にすると、残酷なことに、兵士も女も子供も虐殺した。このことはだんだんチベット人側にも伝わって、チベット人も中国軍ではなくてモンゴル軍に投降するというケースが増えていく。一つの象徴として、モンゴル兵がおそらく捕虜であるチベット女性を馬に載せて川を渡っている写真を紹介した。

モンゴル騎兵の壊滅と中国民族政策の本質

 そして文化大革命になるとジェノサイドが発動され、そこで真っ先にやられたのがモンゴル軍の騎兵たちだった。楊氏は一九六五年の騎兵隊5師団の幹部たちの写真を映し、この時点ですでに粛清が始まっており、六六年の文化大革命も実は駐屯していたモンゴル騎兵を先に武装解除してから徹底的な弾圧が行われたことを指摘する。文革時、モンゴル人はかつて日本に協力したことや、日本が崩壊したあとも独立を目指したといったことを理由に粛清、虐殺、拷問を受けていくのだった。

 モンゴル人の中はこの悲劇を、自分たちはチベット人に対して悪いことをしたので天罰が下されたというふうに認識する人がおり、今日においても、チベット人とモンゴル人のあいだには実はしこりが残っていると楊氏は言う。南モンゴルからチベットへ巡礼に行くと、チベット人からあなたたちは悪いことをしたと言われることが多々あり、楊氏は、調査するときに「申し訳ありません。私は内モンゴル人ですが歴史を教えてください」と、まず自分の立場を表明してからインタビューなどをしていたという。

 楊氏は最後に、興味深いエピソードを紹介した。ある日本人が私の本が出版されたあと、チベット旅行をしてきた。カム地方に、ドントク・ゴンパという寺院があるのに気づき、その寺に入ってみると、驚いたことにそのお寺に日本刀が展示されていた。

 これはダライ・ラマ法王が亡命したあとに、チベットの人民に対して、われわれは平和を愛する民であるから武器は寺に奉納しなさい、暴力ではなく平和的な手段で訴えようと表明したところ、法王の名としてチベット人は武器・弾薬を寺に奉納した。その中に日本軍の将校たちが使っていた日本刀が含まれていたのだと楊氏は推察する。

もちろんチベットのカムまでは戦前、戦中も日本軍は行っていない。この日本刀は、おそらくチベット人に撃たれたか、あるいは捕虜にされたモンゴル騎兵部隊が、残したものと思われる。興味深い歴史のエピソードとして皆さんにぜひ紹介したいと述べて、楊氏は講演を結んだ。

 続いて行われたシンポジウムではペマ・ギャルポ氏が発言、ペマ氏はチベットとモンゴルの精神的、歴史的関係について述べると共に、自分の知る限りでは、チベット人がモンゴル人に対し、例えかってこのような歴史があったにせよ、いまはそれほどひどい悪感情は持っていない、しかし、中国政府のやり方は、民族と民族のあいだに無用の対立を作って分裂させることだと指摘した。そして、現在の中国民主化運動や、海外の各民族の人権運動や民族自決権獲得運動内部にも言えることだが、中国政府は、常に運動内部に疑心暗鬼を駆り立て、運動を分裂させようとして様々な有形無形の工作を行っている、私たちはそれに負けてはならないと警告した。意義深い講演会としてぜひ記録しておきたい。


楊海英氏講演会報告「日本刀はなぜチベットに舞ったか」 : 南モンゴル自由民主運動基金
http://smldf.org/?p=649

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