10月16日に行われました当会の三浦小太郎事務局長(評論家)による『漢民族に支配された中国の本質』出版記念講演会の動画は、上記リンクよりご覧ください。
参考資料として、「夕刊フジ」紙によるこの本の取材記事を掲載いたします。
漢民族の価値観押しつける「侵略」を警戒せよ
覇権主義・侵略主義の阻止には民主化が必要
評論家・三浦小太郎さん『漢民族が支配する中国の本質』
また、当日出席頂きました小川寛大氏(『宗教問題』編集長)より、文章転載のご許可を頂きましたのでご紹介し、モーリー様の写真を交えて報告に代えさせて頂きます。小川様、ありがとうございました。
【支那通・長野朗】
長野朗という人がいた。1888年に生まれた陸軍軍人で、軍命によって中国大陸に渡り、そこで辛亥革命前後の、さまざまな動乱をその目で直に見た。1921年に軍隊をやめて、中国に関する執筆活動に専念。いわば元祖チャイナ・ウオッチャー(当時は「支那通」などと呼ばれた)のような感じで、いろいろな中国論の本を書いている。
……と、得々と人物紹介めいたことを書いたけれども、私はこの長野なる人間の名前を、このほど初めて知った。今般、評論家の三浦小太郎氏が出版された長野の評伝『漢民族に支配された中国の本質』(ハート出版)を読んで、初めてそういう人が歴史の上にいることを知ったのである。
三浦氏の著書でも紹介されている事実だが、長野の中国論にはしばしば中国に対するかなりきつい批判が載り、あえて言えば元祖ヘイト・スピーチ本のような趣さえ漂わせている。それで戦後にそれらの著作はGHQによって発禁とされてしまい、戦後の日本では長く読まれてこなかった。三浦氏の今回の著書は、そういう意味で歴史の埋もれた人物に光をあてる、挑戦的な一冊である。
それで先日、私は三浦氏の出版記念講演会に行った。三浦氏いわく、やはり長野とは戦後、そういう扱われ方をしてきた論客なので、その正確な実像は現在、ほとんど知られていないのだという。いくらかの左右の論客が、自分の著書などで長野を引いたりはするのだが、「中国の暴虐性を早くから見抜いていた具眼の士」、はたまた「日本の侵略主義をむき出しにした、大日本帝国の暗部の象徴」のように、極端、センセーショナルに扱われるようなことばかりだったらしい。
確かに長野は、中国および中国人の性格や態度などについて、いろいろと「なっていない」「国民性が怠惰だ」といった批判を加えている。しかし、三浦氏も指摘するのだが、長野は実際に中国に長く住み、多くの中国人たちと、日々の生活のなかで濃密に接触していた。だから長野の文章には、そうした彼がじかに接した中国人たちの言動、息遣いがありありと込められているし、実は長野は中国批判をする一方、「中国のこういう部分は日本も見習うべきだ」といったことも、多々書き遺しているのである。
三浦氏はこの長野の生を取り上げながら、「戦前の日本人は、今よりもずっと国際的だった」と指摘する。なるほど、現在のように一般の国民が、フラリと観光で海外に出かけられるような時代ではない。ただそれゆえに、当時国外へ出て行った多くの日本人たちの胸の内には、彼らなりの強固な目的意識があった。かつ、まだ白人国家のむき出しの植民地主義が存在していた時代、国際社会のなかで日本がどう生きていくべきかを考える人たちにとって、特に中国とどういう関係性を構築していくべきか、というテーマは、中国が個人的に好きとか嫌いとか、そういうことを超えた問題であった。北一輝が中国革命にかなり具体的なかかわり方をしていたのは有名な話である。また、あの『脱亜論』を書いた福沢諭吉は、実は金玉均らを通じて朝鮮の近代化運動に深く関係していた人物でもある。アジアのみならずアメリカの地においても、戦前の黒人解放運動の強力な指導者、サポーターのひとりとして、中根中という日本人が存在した。戦前の日本人は三浦氏の言うように、かくも「国際的」であった。
翻って、(今この時点では新型コロナウイルスの問題があるものの)現在では一般人でも、気軽に海外へ観光などで行けるようになった。しかし現代のほとんどの海外渡航者は、ただ仕事の用事、観光スポットなどを、点と線で結ぶ移動くらいしかしていないのではないか。またインターネットの発達は、自宅に居ながらにして諸外国の情報に接することができる環境をも、人類に与えた。三浦氏はこうした状況が、「東京にいたまま、安易な嫌中、嫌韓本などを書き散らすライターの温床になっていないか」と、(ご自身が保守、右派陣営に属しながら)厳しい指摘を行っておられた。かくなる現状を冷静に見つめなおすという意味からも、長野朗が何者だったのかを考えることが重要なのだと。
講演会の最後の質疑応答で、私は三浦氏に、「1975年まで生きていたという長野は、戦後は具体的にどういう生活を送っていたのか」と問うた。「戦後の長野はほとんど沈黙していた」というのが、三浦氏の答だった。
実は三浦氏の講演を聞きながら私の脳内に去来し続けたのが、斉藤積平という人名だった。第2次世界大戦中のアフガニスタンで活動していた日本の外交官で、早い話が「大東亜共栄圏」を確立するための対ムスリム工作に従事していた情報マンである。日本人としてはかなり早い世代の改宗ムスリムで、中東の王族や指導者にも絶大なコネクションがあり、戦後の日本では一種のフィクサー感のある存在ですらあったらしい。この斉藤の部下に小池勇次郎なる人物がおり、その娘があの、「カイロ大学卒」の肩書を引っ提げて、今なお日本政治をかき回し続ける小池百合子である。
斉藤は正直、その人生全般に関してよく分かっていないところが多く、私はいま個人的なテーマとして継続的に、関係資料の収集などを続けている。そして、長野朗という「戦前の大きな国際人」の話を三浦氏から聞いて、私は斉藤積平という人間が、本当に連想されてやまなかったのである(無論、三浦氏の言うように、長野は斉藤とは異なり、戦後は沈黙していたのだというが)。
しかし三浦氏も言われたように、「現代の日本人はかつての日本人より、実は海外を知らない」という側面は、確かにあるのではないか。そんなことをつらつら思わされた、実りある三浦氏の講演であった。
2021年10月19日
小川 寛大