白火サロン第一回学習会報告 講師 ペマ・ギャルポ
5月6日、東京都千代田区会議室にて、白火サロン第一回の学習会が開催されました。講師はペマ・ギャルポ。
まず主催者から、日本在住の中国人であり、白紙革命に共感し民主化を求める中国人の立場から、これから定期的に学習会をしていきたいという挨拶がありました。そして、自分たち中国人が、それぞれの当事者の声を聴きながら、中国の民族問題について学びたい、それは単に知識を得るためだけではなく、各民族の方々との間に信頼関係を創り出すために、固定観念を持たずに話し合う場を作りたいと述べました。そして今後もこの白火サロンは継続して開催し、人権問題、ジェンダー、市民社会などについても考え、学んでいきたいと、今後の方針を語りました。
そしてペマ・ギャルポ氏が登壇、本日は、これまで自分はダライラマ法王日本代表部に属していたこともあり、今も様々な団体に関係しているけれど、今日は、あくまで個人、一チベット人として話します、と断った上で講演を始めました。
その上で、今日自分が話すことは、もしかしたら、5年後にはまた違った意見に変わるかもしれない。それは、歴史や現実というものは常に移り行くもので、近代国家の成立以前は、例えばアジアの大陸では、いくつもの国家と民族が、たがいに侵略したり、また抵抗したりして、その領土を奪い合うことが当然であるかのような時代もあった。その時の価値観は、もう国際社会では通用しない。そして自分にたとえれば自分は13歳の時に日本に来たけれども、その時はベトナムはまだ二つに分裂していた。バングラデシュという国は存在もしていなかった。時代とともに価値観も、また考え方も変わっていくことを、私たちは歴史を語る上で忘れてはならないとペマ氏は述べました。
そして、まずペマ氏は歴史の問題から話を始めました。まず、中華人民共和国が建国された1949年段階では、チベットはいかなる意味でも中国に支配されていなかったし、税金を中国政府に収めてもいなかった。それを毛沢東が政権を取るとすぐに「わが祖国チベット」という言い方をして、チベットを「解放する」という形で人民解放軍を1950年から送り込んできた。その時、チベットには約27万人の僧侶がいて、この人たちは一日中、人間だけではなく、動物や植物を含めて、世の中の生きとし生けるものすべての平和を熱心に祈っていたのだけれど、祈るだけでは、わずか2万人の人民解放軍の侵攻を防ぐことは全くできなかったとペマ氏は述べました。
それ以後、チベットは次第に中国軍によって侵略されていく。中国にとってチベットは、今はレアアースとか、資源が豊富であることがわかっているけれど、その時は資源が目的ではなかった。まず中国にとってチベットは、インド、ネパールなど各国と国境を接していて、戦略上重要な地であり、また、中国や東南アジアに流れ込む重要な河川のほとんどがチベットを源流としている。特にインドに対する戦略上のポイントと、水資源の獲得が、中国の目的だったとペマ氏は指摘しました。
そして、中国はよく、チベットを近代化したのは中国だというけれども、確かに鉄道を引いたり工場を作ったことは事実かもしれないが、逆に、チベットをはげ山にしてしまった。パンチェンラマは、チベットから持ち出された材木だけでも、中国がチベットに行ったという援助額よりはるかに大きいと述べているけれど、チベットの自然を破壊してしまったツケは中国にも来ている、木を伐採しすぎて雨水がたまらず、すぐに水害が起きて、中国人自身も被害を受けている。
また、中国が、チベットは封建的な農奴支配だったので自分たちは解放に来たというけれども、チベット人の半分は遊牧民、遊牧民がなぜ農奴を必要とするのか。チベット社会に矛盾がなかったわけではないけれど、中国の言うことはあまりに歴史を都合のいいように作文しているとペマ氏は批判しました。
また、歴史をたどれば、かっては、確かにチベットが中国に侵略した時代もあった。特に、吐蕃王朝(7世紀に成立したチベットの王国)の時代には、唐と何度も戦い、侵略したこともある、騎馬民族だったチベットが、農耕民だった中国の村を襲撃したこともある。そして、唐から文成公主という王女がチベットの王家に妻として送られ、それによって、中国の文化、特に仏教文化がもたらされたこともあった。その意味で、チベットの方が強かった時代もあったとペマ氏は述べました。
そして、19世紀以後、イギリスをはじめ欧米諸国が中国やアジア全体に訪れるようになると、様々な不平等条約が結ばれた。特にイギリスは、チベットとも、中国ともそれぞれ条約を結んで、双方を操ろうとしたことがあった。イギリスの軍人にして探検家のヤングハズバンドがチベットに侵攻し、ダライラマがモンゴルに逃れ、パンチェンラマ相手に不平等条約を結ばされたこともある。そして、中国がしばしばいう、中国はチベットの宗主国だという言葉は、中国が始めたのではなく、1907年にイギリスとロシアが結んだ英露協商で、おそらくイギリス主導で勝手に決められたもので、これはチベット並びに中央アジアへのロシアの進出を抑えるために、イギリスが当時は勢力が弱かった中国にあえてチベットの宗主権があるという風に取り決めたものにすぎず、実態とは無関係だとペマ氏は指摘しました。
このような歴史を見てくれば、それぞれの国に言い分はある。しかし、私たちが歴史にとらわれ、歴史にこだわりすぎれば未来を失ってしまうことも事実だ。何よりも歴史を考える上で大切なのは、当時の時代状況をよく考えることと、過去の歴史を現在の視点や価値観で裁いてはいけないとペマ氏は述べました。
そして、中華人民共和国建国以後のチベットと中国の関係について話を戻し、1950年以後、中国の圧力と侵入がますます強まる中、チベットからこの現状を解決するための使節団が派遣され、1951年に交渉の場が設けられたが、その際、中国側は、すでに用意されていた文書を突きつけて、これを認めて署名捺印せよと強制してきた。チベット側は、双方はこれからお互いの主張を調整するのであって、我々チベット側使節団は、この文書に署名する権利は与えられていない、また、署名捺印すると言ってもチベット側の正式な印鑑も持ってきていないと抗議した。
しかし、中国側は、すでに文書は用意されているし、印鑑もこちらで作って用意してある、という強引なやり方で、武力を背景に強引に条約にサインさせた。しかも、この条約の第4条には「チベットの現行の政治制度には、中央は変更を加えない」という言葉が明記されていたにもかかわらず、それは全く守られることはなかった。中国の人民解放軍は東チベットから次々と侵略を続け、かつ、最初のうちは確かに人民解放軍は「人民の物は針一本取るな」というスローガンを掲げ、チベット人の農作業を手伝ったりしていたのだが、1~2年のうちに、僧侶、貴族、豪族などの特権階層は人民の敵だ、と言い、そのような立場の人たちを暴力的に弾圧するようになった。これはまさに文化大革命の予行演習のようだったとペマ氏は述べました。
そして1958年から59年にかけて、自然発生的にチベット全土で抵抗運動が続き、59年3月、ダライラマ法王はインドに亡命、ついに首都ラサをはじめチベット全土が中国軍の侵略により支配下に置かれ、大量のチベット人が虐殺され、もしくはインドに亡命した。ペマ氏は、幼い自分もその一人で、今のウクライナの少年のように異国に逃れたと回顧しました。
しかしこの時、国際社会は、チベットのためにはほとんど動こうとしなかった。まず、インドは法王やチベット難民の亡命を受け入れてはくれたけれど、当時ネルー首相は、第二次世界大戦が終わり、やっとアジア諸国が独立し安定に向かうのに、ここでまたアメリカなどの干渉を受けたくないという気持ちがあった。さらに本来この問題に責任があるイギリスは全く動かなかった。チベットの友好国モンゴルはソ連によって共産化されていた。このように孤立した状態で、チベットは事実上見捨てられたとペマ氏は述べました。
状況が変わったのは1962年、中国がインドを侵略して戦争が起き、中国を平和的な友好国と誤解していたインドが敗北したことだった。ネルーは敗戦の責任を問われ、中国の危険性をインドが深く認識し、それで、ダライラマ法王を賓客として扱い、チベット難民にも支援をするようになった。ダライラマ法王がインドに来て最初に行ったことは、難民社会の民主化であり、今は亡命政府とはいえ、チベット人は選挙も行い、議会を持ち、学校や病院も経営している。亡命社会が成熟したことは大きな意味があるとペマ氏は述べました。
そして、1962年以後、72年頃までは、インドの態度が変わり、アメリカもチベットを支援して、チベット人はゲリラ戦を中国内部で展開することもできた。しかし、70年代に入ると、アメリカは中国に接近、中国と連携してソ連に対峙するという外交方針に変わり、チベットゲリラへの支援は断ち切られ、ゲリラ部隊の基地があったネパールからもゲリラは武装解除と撤退を命じられるようになった。
この時ゲリラ部隊の中には、自分の友人や兄弟も中国で殺されたものも戦死したものもいる、武器を捨てることはできないと抵抗した人もいたが、法王は自分の声をカセットに録音し、どんな理由があっても、自分たちを受け入れてくれたネパールやインド政府に抵抗するようなことはしてはいけない、武器を棄てなさいと呼び掛けた。法王のお言葉は絶対だが、自分も信念を棄てることはできないと、ゲリラの中には自殺した人もいる。またゲリラの中には、それからも自由のために戦いたいと、バングラデシュ独立戦争に参戦した人もいると、ペマ氏は大国に翻弄されたチベット人の悲劇を語りました。
そして、70年代末、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、国際的に孤立した時に、今度はソ連が、中国への対抗意識で、ダライラマ法王を歓迎するというメッセージを出したことがある。これは中国にとって、国境を接している大国ソ連が、チベットに大々的に干渉してくる危険性を意味する。それで中国は慌てて、チベットと対話する姿勢を見せ始めた。1979年には中国側は、ダライラマ法王の兄に、「独立という言葉以外はすべて話し合う」と通告してきて、そして中国政府と亡命政府の対話が始まったと、ペマ氏は国際政治の論理が問題を進めた実例を示しました。
さらに、80年代の、鄧小平、胡耀邦らの時代は事態は進展した。胡耀邦はチベットまで来て、涙を流し、チベットが文革の被害で貧しく悲惨な状態になったことを認めた。学校でもチベット語の授業が認められ、寺院も一部は国家の責任で補修されるようになった。これは海外のチベット人にも希望を与え、ダライラマ法王も「私は(重要なのは、チベットは、とは決して言っていないことだ、とペマ氏は補足しました)独立は求めない」と、高度な自治、つまり中国の現在の憲法でも認めている、各民族自治区における文化、言語、信仰、伝統などの尊重、外交・防衛以外はチベット人の意思にゆだねる体制を作ることを求めるようになった。
もっと言えば、チベットのサンクチュアリ化(環境保全、核実験などの停止、平和な緩衝地帯として非軍事化するなど)を求める一種の妥協案も出すようになった。しかし、この希望は、1989年の天安門事件で断ち切られたとペマ氏は断定しました。チベット人だけではなく、自民族にもこのような虐殺を行うのなら、もう中国政府とは会話はできない。92年まで事実上、中国政府とチベット亡命政府の対話は中断し、その後一時再開はしたものの、習近平政権になってからは全くその道は閉ざされている。
ペマ氏は自分の結論として次のように述べました。
1、いかに無理やりの条約調印とはいえ、1951年に17か条条約をチベット側が受け入れたことは事実で、その後はダライラマ法王もパンチェンラマもこの条約に基づいて行動していたのだから、51年から59年の亡命までは、チベットは確かに中国の一部だったことは認めざるを得ない。
2、しかしそれ以前の歴史、そして、59年にインドに亡命したダライラマ法王は、中国はあの17か条条約の取り決めを一切守らなかったと、条約を明確に破棄している。これは中国に責任があり、条約が破棄された以上、チベットは今、中国の「占領下の国家」だ。
3、自分としては、もはやチベットは独立以外に道はないと信じている。チベット独立は難しいという人もいるが、一度独立を失っても、それを回復した国は、世界にたくさんある。民族が独立への信念を失わなければ、時間はかかってもそれは成し遂げられるときは、国際情勢の変化によりいつでも訪れる。
4,中国とチベットは、少なくともお互いが引っ越すことはできない。そうであるなら、古代・中世にチベットと中国との間に、何度も和解と、それぞれが自分の領土で平和に暮らすべきだという話し合いが何度も行われ、その記録は石碑にすら刻まれているように、チベットが独立した方が、中国にとっても、平和のためにも、中国の安定や民主化のためにも絶対プラスになるはずだ。
5、ただ、現在のチベットでは、子供たちがチベット語を学ぶこともできない。5歳の段階で親から切り離され寄宿舎に入れられ、チベット社会から隔離されて教育されている。言語を奪われるということはまさに民族が文化的に滅ぼされるということだ。だからこそ、なんとか、17か条条約や中国憲法でも認められている、チベットにおける民族の自治権だけでも守ろうと、亡命政府が自治の実現を訴えるのも理解はできる。今はそれほどチベットにとって危機的な状態で、それはウイグルも南モンゴルも同様だ。
6、自分としては、今日ここに呼んでいただいたことはとても感謝しているし、かつ、自分は今の中国政府と対話をすることにはあまり期待を抱いていない。むしろ、今日のような若い中国の人たちが自分の話に耳を傾けてくれたことがうれしい。本当は、習近平こそが、このような話を聞くべきと思うが、私は中国政府よりも、一般の中国人が考えを変えてくれることを信じて、このように自分たちの立場を訴えていきたいとペマ氏は強調しました。
最後に、ペマ氏は、今の中国政府のやり方では絶対にチベット問題は解決できない、征服してから70年近くたっても、今も、中国政府はチベット人の心をつかんでいない、それが何よりも中国政府のやり方が間違っていたことの証拠なのです、と語って講演を結びました。
その後、会場から質疑応答や自由討論がなされ、午後8時過ぎに第一回白火サロンは閉会しました(文責:三浦)