第65回アジア自由民主連帯協議会主催講演会
イリハム・マハムティ出版記念講演会報告
9月9日、星稜会館会議室にて、イリハム・マハムティ副会長の著作「わが青春のウィグル」の出版記念講演会が開催されました。参加者は約30名。横浜市の斉藤達也市議、角田一帆市議も参加されました。
ペマ会長、そして本書の編集を担当した永井由紀子氏のあいさつの後、イリハム氏が登壇。この著書では、できるだけウイグルの政治問題ではなく、自分が生まれたころから大学に進学するころまで、80年代のウイグルについて生い立ちと共に紹介したいと思ってこの本を書いた、というところから話を始めました。
そして、まだ子供のころの自分はそれほど政治意識を持っていたわけではない。ただ、例えばウイグルにおいては、1970年代には、それぞれの国民に武器を渡されていたことがあった。それは中ソ対立の中、ソ連がこのウイグルの地に攻めてくるかもしれないという危険性を中国政府が危惧し、ウイグル人たちを武装化して備えさせていたからだ。もしもあの時に、ウイグル人が決起していたら、歴史は全く違っていたかもしれない。そのようなことは当時もうすうす聞いたことはあったと述べました。
また、1980年代、改革派の政治家胡耀邦が、チベットなどでの民族政策の過ちを認めたのち、確かにウイグルでも一時的にある程度自由が訪れた。ただ、そうはいっても、中国の軍人が建設兵団などの形でウイグルにとどまっていたことは確かで、ウイグル人に対する圧力や、ときには暴力も加えられていたことも確かだったと述べました。そして、1989年、天安門事件の時、ウイグルでも民主派学生を支援するデモが行われたのだけれど、それも弾圧され、それ以後は抑圧は段々厳しくなっていった、自分がウイグルを出ようと思ったのはやはりこの時代だったと述べました。
また、自分がこれからやりたいことの一つは、本にも書いたけれど、ウイグルの言語、文化を守る運動で、これはすでに故郷ではウイグル人たちは、言葉も信仰も文化も奪われている。伝統文化を奪われたら、もうウイグル人はウイグル人ではなく、それこそ中華民族の一つにされてしまう。たとえ外の世界でも、ウイグルの文化を守り抜かなければいけないとイリハム氏は訴えました。
そして休憩の後、今、海外のウイグル人の間には中国政府が分断を持ち込んでいる。自分自身は、二か月前、母が亡くなっていることを知った。それは二年前のことだったと述べ、イリハム氏は、自分はここ数年間は故郷と全く連絡が取れていない。おそらくほとんどの海外に在住するウイグル人が、故郷の家族と、電話やメールですら連絡が取れていない。しかし、中には、故郷に帰れるものも、また、留学生として今外国に出てくるものもいる。その人たちを中国は宣伝に使い、ウイグルの団体が言う収容所や、行動の自由もないのは嘘だ、という例として挙げていく。このようにウイグル人は分断されているとイリハム氏は主張しました。
そして、自分としては、ウイグル文化と日本文化の共通性のような話を本当はしたいのだが、どうしてもこのような民族の悲劇についての話になってしまう、ただ、それは単にウイグルを助けてほしい、理解してほしいということではない。人間は、あまりに悲惨な話を聞かされると、かえって絶望的になってあきらめてしまう、その情報に慣れてしまうというところがある。そしてこれは残念なことだが、同じ信仰を持つイスラム諸国、またイスラム学会、学者たちから、同胞が殺され侵攻を禁じられているのに、助けようという声も挙がってこないと、イリハム氏は、ウイグルが世界から見捨てられる危険性を指摘しました。
その上で、自分はただウイグルを助けてほしいと訴えているのではない、このウイグルの悲劇を看過していたら、次は日本が中国の侵略を受けるかもしれないのだ。そのことをぜひ日本の皆さんは認識し、日本を守るためにも私たちの歴史と経験を参考にしてほしいと述べました。
そして、現在、処理水の排出を理由に、中国は全く非科学的な理由で日本からの魚の禁輸措置をとっている。しかし、では中国と日本に国交がない時代、日本の漁業は成り立たなかったのだろうか。むしろこれを中国依存から脱し、国内消費や、もっと様々な国に魚を輸出するきっかけとすることで、チャイナリスクの高い対中国の経済依存を変えていくべきだとイリハム氏は講演を結びました。(文責 三浦)
アマゾンレビューから
イリハム・マハムティ著 わが青春のウイグル(かざひの文庫)
著者イリハム氏は1969年に生まれている。そして、彼が少年時代を送った70年代後半から80年代にかけては、ウイグルにおいて、共産党支配実現以後、おそらくもっとも「平和」な時代だったと言えるだろう。
文化大革命の惨劇後、鄧小平時代の改革開放が始まったこの時代、中国政府は、建国後初めてといっていいほど、自らの政策の過ちを認めた。政府の有力者であり改革推進派だった胡耀邦が、チベットで自ら文革の過ちを認めたのはその象徴である。中国政府は、各民族の文化や自治を、この時期だけは一定程度認めるそぶりを見せた。この時期にイリハム氏が少年時代を送ったのは、彼にとってささやかな幸せであったろう。
少年時代をイリハム氏は楽しげに回想しているが、当時の小学校において、当時は学校の先生も、決してウイグル人だからと言って差別するようなことはなかったという。もちろん、イリハム氏は、成長するにつれ、中国人とウイグル人との距離、いびつな関係を感じるようになるが、現在の、全土が収容所と化した時代に比べればはるかに平和的な関係があったのだ。
そして、当時はウイグルにおける大家族制度が守られ、子供を親類一同で育てる共同体が生きていることだ。これは日本も核家族化が進む高度経済成長以前は同じだったはずだ。本書でここで紹介されているようなウイグルの民話も、イリハム氏は子供のころに、尊敬する祖母をはじめ家族から聴いていたに違いない。
そして、ウイグル人が友人や親類の家に遊びに行き、時間がたてば、そのまま泊まっていくのがごく自然なことだというくだりを読むと、ある意味、私たちの人間関係とは、ある意味プライバシーや「自由」の名のもとに、希薄になりすぎてはいないかとすら思う。
だが、このような牧歌的な時代は過ぎ去ってゆく。1989年、ちょうど20歳の時に天安門事件が起きる。チベットでも民衆が決起、イリハム氏も学生の一人としてウイグルで天安門学生たちを支援していた。だが、この民主化運動が弾圧されたのち、時代は中国共産党の弾圧政治の強化に向けて逆行し始めていく。イリハム氏が日本に向けて留学の形で旅立っていくのは、ある意味運命的なことであった。
来日後のイリハム氏の、日本ウイグル協会での様々な活動については、本書はあえてほとんど触れていない。それよりも、これからイリハム氏が行おうとしている、ウイグル文化の日本への紹介、いや、もっと言えば、故郷ウイグルでは抹殺されているウイグル文化(かつウイグル語)を、如何にこの日本という地で守り、語り継いでいくかという新たな活動への決意が述べられている。巻末のペマ・ギャルポ氏との対談も極めて興味深い問題提起をしており、文化を守ることも戦いなのだ、というペマ氏の言葉は、私たちにもう一度、文化や言語の大切さ、民族の魂としての価値を思い起こさせる。ウイグルの歴史の証言として本書をぜひおすすめしたい。