【第68回報告】協議会講演会「ウイグル詩の歴史と民俗詩コシャク(qoshaq)の力」

4月20日、「ウイグル詩の歴史と民俗詩コシャク(qoshaq)の力」と題された講演会が東京お茶の水の会議室で開催されました。講師は『ウイグル詩史』(集広舎)を発行された萩田麗子氏、参加者は12名でした。以下、当日配布された資料を中心に報告します。

ウイグルの民俗詩「コシャク」とは、だいたい一行が七音節で、四行から構成されていることをまず萩田氏は説明しました。この詩形はリズミカルで心地よい響きを持ち、かつ力強さがあり、用いられているのは普通のことばだが、生き生きとしていて、聞く者にイメージを喚起させ、歌にするのに適していると、萩田氏はコシャクの魅力と性質を紹介します。

また、萩田氏は、このようなコシャクの形式を持つ詩は今でもテュルク系言語を使う民族のあいだには広く存在していることを指摘し、今もなおこの伝統は続いていることを説明しました。
さらに、紀元前からウイグル人の祖先は詩を詠んでいた。当時の詩は旋律を伴って歌われるものであり、口から口へと歌い継がれた詩は、彼らがまだ文字を持っていなかった時代に漢語に翻訳されて遺された。この時代、すでに7音節4行を基本のかたちとするコシャクの原型ができあがっていたと推定されると指摘しました。

その一つとして萩田氏は、次の「勅勒歌」を挙げ、これは漢字で書かれてはいるけれどコシャクのリズムだと述べました。



勅勒歌   
勅勒川 陰山下    6音節
天似穹廬 籠蓋四野  8音節
天蒼蒼 野茫茫    6音節
風吹草低 見牛羊   7音節

続いて萩田氏は、ウイグル・カガン国の時代(8世紀半ば)までは、ウイグル詩は突厥語の文字で書かれていくつかの碑文の中に遺されていること、9世紀半ばから13世紀のあいだ、西ウイグル国(天山ウイグル国)が建国され古ウイグル語の文字が使われるようになってからは、仏典や仏教説話がサンスクリット語やトカラ語、漢語から翻訳されたことを説明しました。その一つには次のような仏典翻訳があります。



「春の日の2月8日 まさに夜が明けようとするとき すべての煩悩を消滅させ 完全な知恵の光で大地を照らし 太陽のような仏としてこの世に出現された
褐色の大地が震え 須弥山(しゅみせん)が震え 海と川の水があふれ出るほどに揺れ
国土、木々、草木までもが喜び着飾り 十万の光が射し込み 天の音楽 太鼓が響き
風が吹きわたり 空に芳香を放つ小雨が降り
金銀、瑠璃、水晶、蓮華の花が次々と降ってきた
弥勒菩薩は高いところに座っておられた 全身からは金色の光が放たれていた
衆生がこの光を浴びたとき 三千大世界が水上の小舟のように揺れた」

さらに、西ウイグル国とほぼ同時期に成立したカラハン国ではイスラム教の受容にともないアラビア語の文字が使用されるようになり、テュルク・イスラム文化の二大名著とされるテュルク語・アラビア語辞典『テュルク諸語集成』や、長詩『クタドゥグ・ビリク(幸福になるための知識)』が著されたと萩田氏は述べました。。前者では多数のコシャクが例文として採られ、後者ではコシャクの形式で詠まれた引用詩が挿入されているとのことです。

続けて萩田氏は。この時代からペルシャ詩の影響を受けた定型の古典詩が詠まれるようになり、詩人たちはコシャクの韻律(バルマク)とは異なる韻律(アルーズ)を採り入れ、長い試作の時期を経て、チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)による古典の定型詩を詠むことができるようになったと、その文学的な発展を述べたのち。チャガタイ語は、当時ペルシャ語を経由して採用されたアラビア文字で書かれていて、文章語として広く中央アジアで使われていたと指摘、中央アジアの文化的交流について指摘しました。

さらに萩田氏は、古典詩の時代は14世紀から19世紀まで続いたが、19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて東トルキスタンが激動の時代に入ると、古典詩も徐々にその内容が民族の覚醒を促すものに変わり、民俗詩コシャクとともに、人々を啓蒙する役割を果たすようになったと述べました。

そして現代に入ると、文字数や行数などの規則にとらわれない自由詩が現代ウイグル語の文字で書かれるようになったが、コシャクの形式の詩も詠まれつづけ、童謡や民謡、ウイグル歌謡、ポピュラー・ミュージック、ロック音楽の歌詞に採り入れられている。民俗詩コシャクは数世紀にわたって古典詩と共存したことにより、比喩と象徴の多彩な表現を手に入れ、現在では、自由詩とともにウイグル詩の世界を支える二本の柱の一つとなっているお、萩田氏は現在もなお、コシャクの伝統は絶えることなく続いていることを指摘しました。

そして、当日以下の二つの詩、並びに、この詩に曲を付けて歌っているウイグルのロックバンドが紹介されました。おそらくトルコで録音、映像が作成されたのは以下の作品です。



挨拶   詞 アブドゥレヒム・オトキュル 1945年 蘭州にて
  
私のそばを吹いていく風よ  耳を澄まして話を聞いてくれ
お前のハンカチを取り出して 私の涙を拭いてくれ

あの山々を越えて   私のふるさとへ行ってくれ
涙に満ちた心からの挨拶を 私のふるさとへ届けてくれ (風よ  風よ)

山々を越えていくとき   花々に挨拶を届けてくれ
苦しんでいる人たちの心に   私からの挨拶を届けてくれ

畑で懸命に働く農夫たちに   私からの挨拶を届けてくれ
果樹園で汗水流して働いている人たちに 私からの挨拶を届けてくれ (風よ  風よ)(私にはどうすることもできない 風よ )

自分のふるさとから切り離された旅人たちに  私からの挨拶を届けてくれ
ゾホラと別れたタヒルたちに 私からの挨拶を届けてくれ 
(私にはどうすることもできない  風よ)


ロックバンド「ティンシグチ TINGSHIGHUCH」がこの詩に曲をつけたのがこれです。
https://www.youtube.com/watch?v=ke-PJ_bLPdk

今 このとき      詞・曲 ティンシグチ

この沈黙の時   心が強く求める
坂道を上っていっても  目的地が見えないのに

途切れることなく訪れる夜 夢の中で 旅の途中で
混乱した頭を抱えて  ただ一人 空を見上げる

慈悲深き世界よ  どうか力を与えてくれ
お前の熱で  心の洞窟を明るくしてくれ

疲れ切ったこの瞬間  心が希望を抱く
「力を手に入れた時  目的地は目の前にある」と

宵の明星が光る夜  明けの明星が光る夜明け
勝利の歌を歌って  空に挨拶を送ろう


こちらはTINGSHIGHUCHのオリジナル曲。
今のウイグル人の置かれている状況を歌にし、そして決して希望を失わないことを誓う曲。萩田氏は、このような若者たちの存在が希望であり、ウイグルの文化は決して滅びることはないと語って講演を結びました。

なを、参考までに、いくつかのウイグル詩を萩田氏の翻訳で紹介します。

ムッラー・ビラール(1824~1899)
1864年から71年の間に起きた入り地方の民衆蜂起をうたった詩を残している。「中国における闘いの記」



異教徒たちの圧政は限度を超えた 民衆は中国人からひどい目にあわされた
絶え間なく金銀を金持ちから取り上げた 金持ちは貧乏人から取り上げた
兵隊たちから何度も鞭打たれ 貧乏人は死ぬ方がましだと思った
中国人はこのとき圧政を敷き 人の子を売って 金を得ていた

アブドゥハリク・ウイグル(1901~1933)

ウイグル詩の近代への扉を開いた詩人、ウイグル社会の近代改革のためにも尽力した。1931年から起きた民衆蜂起に参加、とらえられて1933年処刑される。



私は旅に出るが 友よ 私の身をあれこれ案じないでくれ 
食べ物もなく長い道を行くが でこぼこ道なのか ぬかるんでいるのかわからない
敵に従うものは多い 従順は一種の無知だ
なぜ無知のままでいることができるのか

真っ暗闇の中の長い夜 生あるものは休んでいる
苦痛を感じているのか 無事でいるのか どうなっているのかわからない
今この瞬間 憂いと悩みを語り合える友は ああどこにいる
哀れなウイグルよ 己を奴隷の状態にしたままでいられるのか

ニムシェヒト(1906~1972)


1933年の東トルキスタン・イスラム共和国独立の際も共和国軍に参加して戦い、国民党軍の銃弾を受けて重傷を負った経験がある。その後はむしろ共産党を支持したが、文化大革命のさなかに紅衛兵により殺害された。

私が戻る前に 同胞が残酷に打たれるかもしれぬ
血に飢えた剣が愛する人の頭上に光るかもしれぬ
獰猛な残虐さの中で 人間としての意識がなくなるかもしれぬ
だがこの体に命がある限り 必ずやかたきをとるだろう
人間が野獣の前で敗北することは決してない

アブドゥレヒム・オトキュル(1923~1995)

現代ウイグルを代表する詩人、作家の一人。1995年の葬儀の際はウルムチに推定1万のウイグル人が集まったという。



足跡

長い旅に出たとき われらは若かった 今やわれらの孫が 馬に乗る年となった
困難な旅に出たとき われらは少数だった 今や大キャラバンといわれ 砂漠に足跡を残した
砂漠に 山越えの坂道に 足跡は残った
砂漠に 勇者たちの屍は墓もなく残された
いや 墓もなく残されたとは言うな  タマリスクの色づく砂漠では 
春になると花々が われらの墓を覆い 飾ってくれる
どれほど馬がやせようと キャラバンは決して歩みを止めぬ
孫が ひ孫が いつの日か必ず われらの足跡を探し出す
(文責 三浦)

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